探偵日記

探偵日記 1月27日火曜日 晴れ

もう1ヶ月以上続きて居る微熱が治まらない。そのほか、くしゃみや鼻水、少し頭も痛い。周囲は、完全な風邪の症状というが、寝込むほどではないので普通に生活している。昨日は、赤坂のホテルで友人と、友人が紹介するという依頼人と面談した。そのあと、食事になるだろうと思っていたが、友人が「もう一つ予定がある」ということで、1時間少々でお開きになった。以来案件は困難なもので、正式な以来は後日となる。場所は赤坂。久しぶりにクラブに寄ってみようかな。と思ったものの熱っぽくてけだるい。(よし、今日は休肝日にしよう)と決心し、夕飯も摂らずそのまま帰宅。齢を重ねだんだん意気地が無くなってしまうのか。
朝5時起床。タイちゃんの散歩に雨の中30分ほど歩く。ベッドの中ではなんとも無かったが、起きて動き出すとまた熱が出た感じになった。10時、新宿一丁目の事務所へ。阿佐ヶ谷駅で電車を待っているとA弁護士から電話が入り、新件を頂く。

新宿・犬鳴探偵事務所 3-4

 或る日、珍しく事務所にいた犬鳴は、最近、他の探偵事務所で働いていたところを、無理を言って犬鳴の事務所に迎え、調査部長をしてもらっている池辺を誘って、歌舞伎町に飲みに行くことになった。池辺は、犬鳴が若い頃修行した「東京探偵事務所」(東京、神田)の後輩である。一見すると元刑事と見紛う容貌で、三億円事件で指揮を取った、落しの八兵衛こと、往年の名刑事(平塚八兵衛)に良く似た男だった。酒好きで酔うとポケットに入っているお金をばら撒きながら歩く癖があり、そのことさえ気をつれけば邪気の無い好人物だった。ぶらぶら歩きながら伊勢丹の前まで来て、(ちょっと腹ごしらえしてゆこう)と思い、明治通りに面した文化会館八階の「エスカイヤクラブ」に入った。この店は会員制で、全国に店舗を網羅している。(どの店に行っても自分のボトルが出てくる。ことと、今時珍しいバニーガールが接客する)のを売りにして飛躍した。
蝶ネクタイに黒い服の支配人が現れ、いらっしゃいませと慇懃に言う。バニーちゃんに案内されて席に着こうとした時、(犬鳴さん)と呼ぶ声がした。振り返ると銀座の探偵事務所の所長が女性と飲んでいた。

 その日の正午ごろ、ドクターの妻である依頼人がいつものように事務所にやって来た。最近の夫人は大人しい。特に今日は何か思いつめたような顔をしている。犬鳴の部屋に入りソファに座ってもうつろな表情で、ぼんやりと犬鳴を見つめるばかりである。(何だか元気無いじゃあない)犬鳴にしてみれば大切な依頼人ではあるけど、時に、妹か娘とも思うこともある。勿論、依頼人にしてみれば、大金を支払って雇った探偵を、そんなふうにしてにして見る事はないだろうが、もう何度も顔を合わせている犬鳴は、気を許した相手を労うように云った。
依頼人の柳原夫人は、薄く笑った後、声を潜めて「ねえ、犬鳴さん。2億円出すからやってくれない」と言う。犬鳴は夫人の言った言葉の意味を十分承知の上で、敢えて返事をせず夫人を見返した。長い探偵稼業、これまでも何度かそんなことを云われた事はある。しかし、大半は冗談半分で笑いあって終わった。後年、四、五回同様の相談を持ちかけられた犬鳴だが、当然ながら総て断ってきた。中には、担当者が(着手金)だと言って五千万円受け取ったこともあったが、苦心して返した事例もある。ただ、犬鳴はこう考える。勿論そんな依頼は引き受けないが、にべもなく断るのも能がないし、頼りにして、すがりつく依頼人の、(人生の指標)を閉ざすことになりはしないか。残念ながら犬鳴のこれまでの人生で、自身が依頼人になりうるような経験は無いが、この種の悩みに特効薬は無い。さらに深みに嵌れば、暗く長いトンネルをたった一人手探りで歩き続け、遂に出口を見つけられないままやけになり、自殺するかもしれない危険がある。探偵とは、人の不幸に立ち会う職業であれば、トンネルの出口を探し、生きる希望を共に探してあげることだって必要なのではないか、と。

 依頼人は言う。「私は、あの女が主人の子を生んで、私たちの子供と同じレベルで生きてゆくのが許せないんです。お金は前もって用意します」夫人なりに考え抜いた結論なのだろう。翻意させることは困難に思えた。都内で名の売れた総合病院を経営している実家は相当な資産家でもある。まさか、娘が殺人を犯すために用立てたりはしないだろうが、可愛い一人娘に無心されれば二億円を出すのもさしたる苦労ではないだろう。犬鳴は聞いてみた。(ご主人はどう言ってるの)マルヒの実家も依頼人のそれと同じぐらいの力があるらしい。マルヒは気弱な性格で、妻と愛人に挟まれ身動きできなくなっているに違いない。妻には妻の喜ぶことを云い、愛人の工藤にも、彼女を失望させない言葉で言い繕っている筈だ。
「あのバカ亭主は駄目です。自分では何も解決できずただうろうろするばっかりです。昨日(離婚しましょう)って云ったら、嫌だって泣くんです」
依頼人も口では乱暴なことを言っているが、両親を含む周囲の人たちから十分な愛情をそそがれて育った普通の女性である。まず離婚は避けたいだろうし、夫に対する未練も読み取れた。二億円という金額はその証であろう。(分りました。奥さんの希望に百パーセント応えられないかもしれないけど、ちょっと考えさせて下さい。)犬鳴はそう云って、続けて、(一度ご主人とも話がしたいんだけど、今度の非番は何日ですか)と聞いて、数日後、夫だけを事務所に来させるという約束をして夫人は帰った。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー