探偵日記 1月26日月曜日 晴れ
昨日は千葉市のヴィラで甥の結婚式に出席。今風というか、「人前結婚式」というそうだ。式場はチャペルで、フラワーシャワーなどもあって神前と変わらないが、何となくはしょった印象も拭えない。ただ、お嫁さんは、(良く甥に嫁いでくれたものだ)と思えるぐらいの女性。これじゃあすぐに尻に敷かれるだろう。と思ったが、女房が強い方が家庭は上手く行く。但し、夫が一生それをよしとすればの話。午後6時半、疲れきって阿佐ヶ谷に戻る。そしてよせば良いのに、天国に一番近いスナック「ほろよい」へ。数曲歌って帰宅。朝までぐっすり。
5時に起きてタイちゃんの散歩を済ませ朝食の後、早々に仕度をして、10時に事務所へ。
新宿・犬鳴探偵事務所 3-3
翌日、事務所に出た犬鳴は、早速和久田を呼んで報告を聞いた。和久田以下、調査員は昨日は徹夜だったらしく眠そうな顔をして犬鳴の部屋に入ってきた。工藤沙織は新宿区富久町のアパートに住んでいるが、あのあと、二人は喫茶店を出ると新宿二丁目にあるすし屋に入り小一時間過ごした後、恋人同士のように縺れあいながら、靖国通りを5分ほど歩き、あけぼの荘と書かれた二階建ての木造アパートの201号室に入ったという。郵便受けに「工藤」と表示されているから、ソバージュの部屋に間違いない。そして、マルヒは、朝8時過ぎに工藤の部屋を出て、信濃町駅まで歩き、タンゲーラでモーニングを食べて出勤した。「主人もあの女を怖がって」という依頼人の(あの女)は、実は依頼人、すなわち自身の妻のほうではなかったのか。犬鳴は依頼人が哀れに思えた。
午後、依頼人がまたベンツでやって来た。ソファに座るなり「ああ、昨日は空振りだった。主人から連絡が来て、急患が入って大変だったみたい」と言う。どうやらマルヒは勤務先の突発的な事情を口実にしたらしい。今日の依頼人は精神的に安定しているようで、言葉つきも穏やかで、いわゆる、(いいとこのお嬢さん)風である。(まいったな)犬鳴は、機嫌よく目の前に座っている依頼人に真実の報告をすることを躊躇った。本当のことを云うとまた荒れ狂うかもしれない。しかし、絶対に避けて通れない道であった。
犬鳴は意を決し、世間話でもするように話しはじめた。(まあ、浮気をする夫は他愛の無い嘘を良くつくものです。麻雀してたとか、残業でとうとう朝になってしまったとか。でもそれは、妻に対する愛情の証でもあるんですよね。妻子や家庭を大切に思っていなければ、家に帰る必要もないし、妻に対して言い繕うこともない)依頼人は(そんなものかな~)というように茫洋とした感じで聞いている。続けて(やっぱりご主人は工藤が怖いんでしょうかね~、実は昨日、二人は会ったんです。結局工藤の部屋に泊まったんだけど)犬鳴はそこまで話して、そっと依頼人の顔を盗み見た。
依頼人は、エッという顔をした。犬鳴の云ったことが、瞬間理解出来なかったようで聞きなおすような表情をした後、その表情が一変、赤鬼のような形相になった。依頼人は、昨夜夫から(急患が入ったので帰れないかもしれない)と言われ、事実帰宅しなかった。多分依頼人は、「ご苦労様」と、夫を労ったはずだし、体調をも気遣ったことと思う。しかし、目の前の探偵は、夫は、不倫相手と食事をしたあと彼女の部屋に行き朝まで過ごしたという。まんまと騙されたわけである。
怒りの表情がおさまった後、体中の力が抜けたようにソファにもたれ、「先生、私どうしたらいいんでしょう」と聞く。昨日の気迫は無い。縋りつくような目で犬鳴を見てとうとう泣き出した。依頼人が会話しながら泣くことは良くある。だから、犬鳴も別に驚きはしないが、あんなに元気の良かった依頼人が。と思うと可哀想になった。今の依頼人の心境は、夫を看護婦風情に寝取られた。とは思っていないはずだ。少々我がままで、何不自由なく育った依頼人は、今まで本当の挫折を経験したことは無いだろう。今度のことも、世間に良く聞く(亭主の不倫)で、単純に浮気だろうと割り切ってきたはずであろう。まさか、夫が自分や子供を棄てることなんかないだろう。スタイルや容貌に加え学歴と家庭背景、何一つとって比較しても工藤に劣る部分は無い。犬鳴は、これまでの依頼人の話から、彼女が都内有数の総合病院の娘であることを知っている。夫が、東北出身の冴えない看護婦と家庭をチェンジするつもりのないことを。では何故?
後日、犬鳴は、マルヒこと柳原隼人の述懐を聞いた。それによると、勿論、妻子を棄てるとか、工藤と再婚するなどの気持ちは全く無かったという。また、工藤に、死んでやるとか、病院中に触れ回って、貴方も勤務していられないようにしてやる。と脅されてはいたが、それが怖くてずるずる関係を続けたわけでもないという。マルヒはこう言った。「妊娠したと聞かされたときは正直困ったなと思いましたし、家に押しかけてこられた時も妻に申し訳ないと思いました。妻以外の女性とこういう関係になるということも言語道断で、言い訳のしようも無いことです。ですが、どんなことを言われても、何をされても彼女と別れるなんてことは一度も考えませんでした。妻にも(あの女の何処が良いんだ)と責められましたが、とにかく好きだったのです。妻との結婚はそういう意味では失敗でした。いや、妻を嫌いだといっているわけではありません。犬鳴さんには大分無理難題を云ったようですが、僕にはとても可愛い女房です。矛盾しますし上手く云えないんですが男と女の相性というか」
勿論、依頼人の居ない場所での会話だったが、犬鳴にも何となく分るような気がした。確かに、夫婦に限らず、他のカップルを見て(ヘ~あんな人と)と、感じることは良くある。それこそが、男と女の奥深い所以であろう。
その後、三すくみの状態で柳原隼人を被調査人とする素行調査は続いた。マルヒは相変わらず妻を欺きながら工藤沙織と密会を重ね、依頼人の柳原夫人は日課のように犬鳴に会いに来る。三ヶ月もしただろうか、調査員の一人が(所長、ソバ~ジュ目立ってきましたよ)と言って、尾行中のスナップを犬鳴に見せた。犬鳴には、特に大きくなっているようには見えなかったが、柳原夫人に見せると「もう5ヶ月を過ぎている」と断言した。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー