探偵日記

探偵日記 1月28日水曜日 晴れ

昨日は4月上旬の陽気で、今日は真冬に戻ったとか、朝5時、タイちゃんを連れて外に出ると、路面が濡れている。雨かな?と思ったが顔に水滴はかからない。傘を持たずに高架下まで行く。一般の道に出るとまだ暗い空から白いものが儚げに落ちてきた。一つ二つ、そのうち数え切れないぐらいになった。粉雪なのか、そういえば寒気を感じる。遠くから、大型のセパードを2頭引きして、引きずられるように老人がやってっくる。獰猛な息を漏らし接近してきたので大急ぎで帰宅する。

新宿・犬鳴探偵事務所 3-5

 そうした日の夕方、調査部長を誘ってエスカイヤクラブに入ったところで、同業者に声をかけられたのである。銀座で開業しているこの同業者は、業歴や年齢も犬鳴より優っていたし、日頃から、年長者に対する礼節をわきまえている犬鳴は丁寧に挨拶し、(あ、先輩、うちの調査部長です)と言って、池辺を紹介し、成り行きで同席することになった。彼と一緒に居る女性は秘書だと紹介された。犬鳴は(多分愛人だろう)と思ったが、そんなことはおくびにも出さず当たり障りの無い会話に終始した。ただ、同業者ということもあって、お互い調査に関した話題になり、犬鳴がうっかり(いやあまいリました二億円出すから一人消してくれって依頼されました。勿論断りましたけどね)と言ったとき、なぜか二人が目を合わせ予想以上の関心を示した。

 弁護士同様、勿論、探偵にも守秘義務はある。しかし、両者とも普通の人間であれば、ちょっと面白い案件の場合、誰かに話したくなるのが人情であろう。実際、この日も、同業者に対しつい口が滑ってしまった。ただ、どんな場合であろうと固有名詞や詳しい場面は装飾する。聞いた相手が、(ああ、あの人のことか)と察知されることは決してない。例えば、奥さんから依頼されて夫の素行調査をした結果、何と相手は男性だった。時など、稀に遭遇する案件なので形を変えて話すことはある。間違っても、(いやあ、富士銀行の頭取がさ~)なんてことは言わない。

 その日は小一時間エスカイヤクラブで食事して、行きつけのクラブに寄って帰宅した。そしてその翌日、所用を終えて、お昼前に事務所に着き、月曜日に訪問する依頼人の報告書を作成。ただ、指示通り調査はしたが、依頼人が期待したような結果は出ず、やや気が重くなる。調査をしていると稀にこういうことがある。依頼するほうは、(絶対こういうことをしているはずだ)と考えて頼んでくる。しかし、ミスなく調査を終了しても、対象者が、当初依頼人が期待しているような行動をとらない場合がある。しかし、これは致し方のないことで、調査事務所が責められるものではない。ただ、心優しい犬鳴は、費用対効果の観点から(無駄をさせて申し訳なかった)なあと思うのである。

 依頼人の柳原夫人から、「ネェ~犬鳴さん、二億出すから工藤をやってよ」と言われ、調査部長を伴って歌舞伎町に繰り出した夜の二日後、事務所に出た犬鳴のもとに一本の電話がかかった。事務の高子が「所長~OOさんからお電話です」と言う。一昨日の晩、エスカイヤクラブで偶然会った同業者だ。(何だろう)と思って出ると、「ワンちゃん、この間は珍しいところで会ったね~」ところで、今度の理事会だけど。などと世間話をした後、ちょっと声を潜めて「ワンちゃん、あの時の話しだけど俺にやらせてくれないかな~」と言う。犬鳴は瞬間、彼の言ってることの意味が理解できなかったが、そう言った後の彼の沈黙で思い出した。彼は、柳原夫人の、(特別な依頼)のことを言っているのだ。犬鳴は少しだけ驚いた。と言うのも、理事会やその後のパーティーで会う彼は、自分の事務所が如何に潤っているか露骨に自慢していた。この頃、協会の資金集めで理事たちは一律定額の寄付を強制させられていたが、彼が「全部俺が出す」などと言って、他の理事たちから(それでは趣旨が違う)と反論され、大いに顰蹙を買ったりした。また、彼は、鰐皮の財布を取り出し、帯の付いた万札を見せびらかす癖もあり、犬鳴や他の仲間は、(大層景気の良い男だな)と、羨望していたからである。(隣の芝生が良く見える)の例えどおり、外から見える姿と実態が大きく違っていたのかもしれない。

(ああ、あれ、イヤ僕も正式に引き受けたわけじゃあないし、その奥さんだってかっとして口走っただけでしょう)と応えたが、ちょっと先輩に対し失礼すぎるかな。と思い直し、(先輩、なんか良い方法あるんですか?)と聞いてみた。暗に、場合によってはお願いするかもしれません。と、余韻を持たせたのだ。彼は、「まあ、無い事もないが」と口を濁し、その後、当たり障りのない話に終始して終わった。犬鳴の反応で、彼のほうでも、犬鳴に電話したことを後悔したのかもしれず、犬鳴も、(まいったな)と思ったが、その後の付き合いに支障するようなことはなかった。
勿論犬鳴はそんな危険なことをするつもりもなく、第三者を巻き込むことも考えていなかった。ただ、犬鳴なりの考えもあって、今度マルヒの夫と会った時提案するつもりでいた。そして、夫人にもこれで納得してもらうしかない。とも思っていた。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー