カンクラ 2

探偵日記 8月20日火曜日晴れ

昨夜も早々にベッドに入ったが、テレビをつけるとアメリカで行われた最終戦の最終日を放送していた。石川遼や松山英樹も予選を通過して参戦していたのでついつい最後まで見てしまった。すでに二人のプレーは終わっていたがハイライトで数ホールの様子を見ることが出来た。結局、23時近くにテレビを切って就寝。ゴルフの結果は、20歳になったばかりのノンメンバーから上がってきた選手と、妻をキャディにしている23歳の選手のプレーオフでの決着だった。双方、万事休すの場面から凌いで、2ホール目でドライバーを左に曲げて、木の枝の下を通して打った第2打が奇跡的に寄った23歳が初優勝を飾った。一方の20歳が2打目をバーディチャンスに付けていたのを見てのミラクルショットだった。アナウンサーも言っていたが夫妻にとって、記念すべき絶対に忘れられない思い出になったことだろう。むしろ、「絆」と言っても良いかもしれない。暑いからと言ってダラダラプレーをした一昨日の自分を大いに恥じた。25日のコンペは気合を入れてやろう。
朝4時40分、タイちゃんと散歩。夜明けが随分遅くなり、タイちゃんの目覚めも少しづつずれてきた。この時間になるともう大分気温も上がっており、30分ぐらいでさっさと家路に着くたいちゃんでありました。

カンクラ 2

昭和19年、終戦前の朝鮮京城(今のソウル、当時は日本領)で生まれた犬鳴は、かの国の人に対しアレルギーがあった。特に、幼少時を過ごした山口県下関辺りはその傾向が強く、この頃もどちらかといえば避けていた。しかし、星野に連れて行かれた韓国クラブは刺激的だった。それまでは、大箱のキャバレーからクラブにシフトを変え、毎日のように歌舞伎町の高級クラブに入り浸っていた犬鳴は、以後、韓国クラブ一辺倒となり、星野と共に雀荘を7時頃出て、ホステス(勿論韓国人女性)を呼んで食事をし、8時半、同伴出勤。毎日3軒ハシゴして午前1時になると2部に行く。当時はタクシーが捕まらないため2時過ぎまで飲むしかなかった。結局、帰宅は毎日3時になったがまだ40そこそこの犬鳴や星野は頗る元気に日々楽しく過ごしていた。そうこうするうちに同病(笑)の仲間が増え5~6人のグループで歌舞伎町や赤坂を走り回ることになった。

そんな中にサラリーマンが3人居たが星野や犬鳴以上に派手に遊ぶ。犬鳴はついつい職業病が出て(大丈夫かいな)と心配したが、いずれも打ち出の小槌を持っていた。その中の一人に平原という上場企業の部長さんが居た。あとは不動産会社の重役と機器メーカーの常務。三人とも交際費が使い放題という恵まれた人たちだった。中でも平原は植木等のようなサラリーマンで(何時仕事をするんだろう)と訝しく思えるほど破天荒な生活をしていた。勿論妻もある。ただ、彼や彼と一緒に飲みに行くグループは、韓国クラブのホステス達から(ケチ軍団)と呼ばれていた。しかし、犬鳴達も廉価で飲めればそれに越したことは無い。と思っていたので、自然に、平原に仕切らせるようになった。店の前まで行くと皆で平原に2万円渡す。すると、平原は、目的の店のドアを少し開け、店長を手招きし交渉を始める。(オイ店長、今6人居るんだけど一人2万円でどうだ)店長「いやあ、それはちょっと厳しいんですね。」平原(あそうか分ったじゃあ他に行こう。しかし店長もパボ(バカと言う意味)だな。良く考えてみろ飛行機だってカラで飛ぶより乗客が居たほうが赤字が減るんじゃあないか)店長「分りましたどうぞ」ってことになる。

当時、韓国クラブに行き鷹揚に構えると一人最低75000円取られた。その代わり、ボトルはシーバースかナポレオン。オードブルや果物も出る豪華さだ。したがって、ケチ軍団にはハウスボトルで、その他のものは一切出ない。それどころか、席に着いたホステス達の愛想も最初は極めて悪い。星野や犬鳴を知っているホステスは「オッパー(お兄さんと言う意味)どうして平原と一緒なの?」犬鳴は笑って(だって、チング(親友と言う意味)なんだ)と言うと彼女は全く理解できないという顔で「今度は一人で来なさい」と言う。しかし、1時間もすれば店側も諦めて、ほかの客のボトルをだしたり、果物もサービスする。終わってみれば平原の勝ちとなる。犬鳴はつとめて自分の職業を隠したが次第に彼らの知るところとなって、或る日、馴染みのホステスから相談を持ちかけられた。---------