探偵日記 1月7日水曜日 晴れ
寒い朝だった。昨日は比較的早く帰宅してすぐに寝たので、5時のアラームで難なく起きれた。隣室の気配を窺うと、もうタイちゃんがスタンバイしている様子が判った。彼は利口な犬である。今日も僕が散歩係であることを知っていて、大人しく待機しているんだろう。5時11分、支度をして、水を一杯のみ外に出る。
今日は事務の高ちゃんがお休みの日、早々に家を出て10時事務所着。 世間はまだ正月の雰囲気があり電車も空いていた。我が事務所も昨年からのひっかかりの案件が4件あって気ぜわしい。
新宿・犬鳴探偵事務所 1~2
所長の名前は犬鳴吾朗。本当は、東京探偵事務所とか、もっと一般的な名前を付けたかったが、他にも同じような社名が多くあって、独自性を持たせるために自らの姓を冠にした。新宿は学生時代から馴染みの深いところで、吾朗の大好きな街でもある。ということで、スタートは神田駅前だったが、新宿に移転した機会にこの社名にした。
犬鳴なんていう姓は珍しいが、吾朗の郷里には数軒あって、いずれも代々漁業で糊口を凌ぐ家柄である。ただ、吾朗の父は漁師を嫌いサラリーマンになった。郷里は旧、宇賀村といい、山口県の西海岸にある。下関と京都を結ぶ山陰本線は、途中、萩や松江、出雲や鳥取砂丘を経て進むが、中でも、宇賀村を挟む海岸の美しさは格別で、中でも、玄界灘の小灘である響灘に落ちる夕日と、本線を走る列車から眺める海と遥かに望む島々の佇まいは情緒溢れるものである。近年、ここ出身の詩人、金子みすずの名前に因んで走る観光列車、みすず号など、村の峠に差し掛かると列車を止めて、録音された案内を上客に聞かせるサービスを取り入れているほどである。同じ日本海でも北陸のそれとはやや趣は異なるが、冬ともなれば、穏やかな海も荒れ狂い、押し寄せる波は吹きすさぶ海風と共に漁師を苦しめる。
始発駅の下関からうら寂しい単線を小一時間進むと、雑木の混じった松林が見え隠れし、その隙間から幾つもの小さな漁村が現われる。綾羅木、吉見、小串、湯玉、二見、特牛、対岸が朝鮮半島ということもあって、彼の国に因んだ地名も多い。海岸から鉄路に向かって、なだらかな山がせり出し、その間の狭い土地に、板と泥でこしらえた漁師らの塒が肩を寄せ合うように建ち並び、それぞれの集落を形成している。こうした静かな漁村も収穫の魚が水揚げされる早朝の一時、澄み切った朝の空気を裂くせりの声が聞かれ、一日の始まりを告げ、それが終わると港は死んだようにひっそりと佇む。
青い海と灰色にくすんだ堤防に、白い船。美しいコントラストが狭い湾を囲み、そんな漁村のはずれに、うっかりすると見過ごしてしまいそうな小さな木板に、板の大きさに合わせて小さく書かれた「犬鳴」という標識が目にとまる。標識の先の踏切を港のほうに越えると、湾に突き出た形の突端があり、村人達は、荒岩で出来たこの小さなでっぱりを、峠とともに犬鳴(いんなき)岬と呼んでいる。犬鳴はこの地方の言葉でいんなきといい、帰ることを方言で(去ぬ)という。帰ることを忘れてしまうほど去り難き景観のようだ。----------