探偵日記

探偵日記 3月4日水曜日 雨のち晴れ

朝5時にタイちゃんの散歩に出た時は本降りの雨だったが、事務所に行く頃にはすっかり晴れ上がり、小春日和になっていた。10時半、事務所に着く。今日は事務の高ちゃんがお休みの日なので誰も居ないかな。と思ったら所長が机で何やらやっている。その他のものは現場か。

新宿・犬鳴探偵事務所 7-3

 当時は、本当に杜撰な経営をしていた犬鳴探偵事務所は、そんなわけで、バブル崩壊の危機をどうにか乗り越えたが、そんな時、ビルを管理する不動産会社から家賃の値上げを求められた。この頃は、何処のビルも空室が目立ち、移転の条件に、引越し費用を負担し、入居から6ヶ月は無料。などのファックスが連日送られてきたし、家賃の値下げは当たり前だった。馬鹿な不動産会社も居たもので、それまで90万円だった家賃を100万円以上にしてくれと言う。その不動産会社は、本来の持ち主からサブリースしていた。予定通りの家賃収入があれば収入になるし、空室が増えれば持ち出しになる。真の家主は毎月決められた金額を得られるので好不況は関係ない。或る日、犬鳴は何かと可愛がってくれている会社社長と面談の際、その事を話題にして、(経済環境が読めないんでしょうかね~)などと、その不動産会社を批判したところ、「ワンちゃん俺のビルに越して来いよ。ちょうど35坪が空いてるよ」と言ってくれた。(有難うございます。だけど社長僕は敷金を入れるお金が無いんです)今のビルには2400万円の敷金が入れてある。いざ退室となれば、契約通りなら2000万円近くは返金されるはずだ。ただ、その敷金は、正確には井口夫人のものである。犬鳴は、そんなことも正直に話し、ちょっと困った顔をしてみせる。何しろ犬鳴は元、旅回りの一座で育ち、見よう見まねで芸の端っこはかじったし、役どころが不足したら臨時に借り出される子役である。演技力には自信があった。すると社長は、「馬鹿なことを言うな。何も心配しないで引っ越して来い。家賃も自分で決めろ」と言う。

 平成4年5月、犬鳴探偵事務所は、バブル時期、夢のような6年間を過ごしたビルを出て、新宿駅からは少し遠くなったが、まだ新築間もないビルの6階に転居した。前と同じ広さで、家賃は管理費込みの30円。敷金は200万円。但し、敷金は10回の分割で支払う条件で。社長の息子や幹部社員たちは白い目で見たが、絶対的な権力者の社長に諫言する者も無かった。しかし、社長のこの時の英断は間違っていなかった。それから今日までの我が国の経済は疲弊の一途を辿り、なんと、あの時、家賃の値上げを告げられ、出て行った犬鳴探偵事務所の一室は、以後、9年間空室のままで、その後、27万円に家賃を下げてやっと入居者が現われた。例え、30万円でも遅延無く入る家賃は貴重で、加えて、当然ながら社長の会社から依頼される困難な案件を、今度は社長の提示する報酬で引き受けた。今でも時々、「おい、ワンちゃん今夜うなぎを食いに行こう」などと誘ってくれる。社長の御年85歳。頗る元気である。ーーーーーーーーーーーーーーーー

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