温泉芸者 2

探偵日記 6月4日火曜日晴れ

今日は、09時、麻布十番の依頼人宅を訪問する予定が有り、タイちゃんとの散歩を終えてすぐ朝食となった。支度をして、08時少し前に家を出る。20分前、少し早いかな。と思って電話すると、依頼人も、(そのほうがいいからすぐ来い)と言われ、早々と訪問した。それから1時間半、山のように嫌味を言われた。稀に有る現象だが、調査員が苦労して得た情報を報告しても、(そんなことは最初から分っている。こんな調査なら子供でも出来る)等と理不尽極まりないことを言う人が居る。初めての依頼人ならけつをまくって帰るところだが、もうこの依頼人とは20年近いお付き合いで、依頼人はともかく、当方は、気心の知れている。と思っているので腹も立たない。それどころか、依頼人の心境が分るだけに同情すらしてしまう。良く(女心と秋の空)というぐらい女性の心は移り気というか、めまぐるしく変化する。

本件調査のマルヒはK子という。依頼人とは数十年の付き合いらしい。昨年末頃、そろそろ初老にさしかかった依頼人が正式にプロポーズした。K子は大喜びしたが、少々事情もあって、「半年お時間を下さい」と言ったという。依頼人は承知して今日まで待った。事情というのは、彼女には古い愛人が居て、そっちを清算する。との由。その男は、K子の言う(故郷の同級生に結婚を申し込まれて、私も良い年だし承諾しようと思っています。)ついては貴方との関係も今日限りにしたい。という申し出を聞き「そうか分った。幸せになりなさい」と言って快く承諾してくれたらしい。それが3月31日、彼女は周囲に対し(あの人は本当に立派な人だった。嫌味の一つも言われたほうが気が楽なのに)と、述懐したという。

晴れて、自由の身になったK子は、依頼人に対しメールで(大変でしたけど全て清算できました。ふつつかな女ですがよろしくお願い致します)と報告した。安堵した依頼人は新居となる10億円のマンションを、彼女の希望に合わせてリホームする段取り等嬉々として計画しようと思っていたが、翌4月1日、(貴方のお申し出に添えなくなりました。ゴメンなさい)というメールが届いたのだ。秋の空だってこれほどの変わりようはしないだろう。これは詐欺に等しいんじゃあないか。僕はそう思うが、皆さんは如何?---------

温泉芸者 2

次の週末、金曜日に帰宅した弁護士が言う(あ~疲れた。本当は家でゆっくり休みたいんだけど顧問先の社長に、是非って誘われちゃった。明日からまた群馬だ)横で聞いていた妻は「お疲れさま。でも大事な顧問先の社長さんからのお誘いじゃあ仕方ないわね」と優しくいい、甲斐甲斐しくボストンバックに下着や常備薬を入れている。ただ、内心は(今に見ていなさい)煮えたぎる嫉妬と、背信に対する怒りの炎で、今にも大爆発しそうな気持ちをかろうじて抑えた。そんなこととは露知らず夫の弁護士は、明日の今頃は、妻とは真逆の芸者子ぶたの思い描きながらすこぶる機嫌良く寝室に向かった。妻の耳に微かだが、大下八郎の(女の宿)のせりふが聞こえた。

一方、子ぶたのほう憂鬱だった。というのも、最近、ある男性と恋に堕ちていたのだ。彼は年齢40歳位。東京の会社社長という触れ込みで、金払いが半端なく良かった。何よりも男女の営みが素晴らしい。比較的尻軽な子ぶたは、今まで両手の指では数え切れないくらい男性経験があるがMは別格だった。後年、朋輩芸者にしみじみ告白したらしい(ねえさん、私はMさんに本当の女の喜びを教えてもらった。)と。子ぶたは、自分でも自分が分らなくなる時が有る。前夜、Mと交わり何度も何度も気を失うくらい燃えたのに、土曜日、弁護士の顔を見ると、ついさっきまでの憂鬱な感情が嘘のように無くなった。

そんなことがあった週末も過ぎ、次の金曜日、子ぶたは何時も良く呼ばれる旅館から指名が入り、いそいそと出掛けた。番頭さんから「子ぶたちゃん梅の間ですよ」と言われ、独り言のように(誰かしら)と言うと、番頭は、「アベックだよ」と応える。何も特別なことではない。贔屓にしてくれている客が妻を伴って来ることもあり、客のほうは、妻に対して、自身の潔白を証明するように子ぶたを紹介するのである。勿論、Mや弁護士はそんなことをしない。

梅の間に赴いた子ぶたは、着物の裾を整え、華やかな声で(ごめんください)と中に声をかけ、障子を開け、中に入って中腰のまま後ろ向きで閉め、座敷に三つ指を突いて挨拶する。そして初めて客の顔を見るのだが、床の間を背にして男女が座っている。しかし、芸者を呼んだというのに料理やお酒がなく二人のテーブルには湯飲み茶椀がぽつんと置いてあるだけだ。少し嫌な感じがした子ぶただが、にこやかな表情は変えず(あらあらお食事はまだでしたか、早速)と言って、部屋の電話に手をかけたとき、男性のほうが子ぶたを制し(子ぶたさんとおっしゃいましたかね。実は今日、おりいって貴女にお話が有って参りました。だから食事はそれがすんでからで結構です。)と言いながら、黒くて大きい鞄から名刺入れを取り出し(遅くなりましたが私はこういうものです)子ぶたが手渡された名刺には、東京の弁護士の名前が書かれてあった。