探偵日記

探偵日記 2月16日月曜日 晴れ

昨日のゴルフは最低の出来だった。ティーに乗せたボールが落ちるほどの強風だったが、条件はみんな一緒なのだから言い訳にはならない。良くコースにも行くし週一回は必ず練習にも行っている。なのに?である。土曜日には、みえ見えの役マン(緑一色)に振り込んでしまった。ついていないというか、集中力が欠けている。体力気力ともに下降気味なのだろうか。
今朝は5時に起きて散歩。朝食の後、早々に仕度をして事務所へ。

新宿・犬鳴探偵事務所 5-4

 犬鳴は、井口夫人が執拗に夫の素行調査を依頼してくる事情を薄々察していた。夫は養子である。岳父が死んで急に勝手をし始めた。妻に対し暴言を吐いたり、これ見よがしな振る舞いこそしないが、一番悪い事をしている。井口夫人が離婚を切り出せば否応無く井口家を出て行かなければならない。勿論、財産分与など要求できるはずもない。何故ならば、井口家の資産は妻が総てを相続しているが、夫の寄与分は(夫婦で築いた財産は皆無であるから)無いに等しい。しかし、妻に有責事実が存在したならばどうだろうか。仮にも30年以上夫婦生活を送っている。旧家ゆえ、親戚筋や世間体という柵もある。全くゼロという訳にはいくまい。そんな中、タイミング良く夫が浮気をしてくれた。

 昭和60年某月某日、杉並区内で主婦が首をつって自殺した。主婦は、造園業を営む夫の女性関係に悩んでいたという。おそらく、主婦は夫の浮気相手も知っていただろう。と、思う。一方、不倫相手の妻に死なれた女性の心境はどんなものであろうか。仮に、その女性を井口夫人としよう。大地主の一人娘として、蝶よ華よと育てられた世間知らずの夫人とて、呵責の念に苛まれなかったか、ただ、それはそれとして、禁断の恋を捨てる勇気も無い。(貴方だってしてるじゃない)少々短絡過ぎるかもしれないが、井口夫人がすがった拠りどころはそんなところだろう。調査にかかる費用は夫人にとって微々たるものであろう。後年、犬鳴は夫人から「ワンちゃんにアパート一つあげちゃった」と、笑いながら言われたことがある。犬鳴も多分そのくらい頂いたかな。と思っていたが、返事をする代わりに、ニッコリ笑って応じた。

 マルヒの井口氏が不倫を始めたのが昭和六61年の10月頃、相手女性がマルヒの取引先の造園会社に就職したのが、その少し前、数ヵ月後、夫人が、夫の異変に気づき犬鳴探偵事務所を訪れたのが翌62年春、したがって、夫人の浮気のほうが先んじていたことになる。いくら養子といっても夫は夫である。特に、古いしきたりの家で育った夫人は細心の注意を払って、男との逢瀬を重ねていたに違いない。井口家と、相手男性の営む会社は、不倫相手が勤務する大手造園会社を通じて取引関係もあり、狭いところで繰り広げられていた変則的な愛憎劇であった。
夫人と相手男性は、井口氏の秘密を共有していたが、マルヒの井口氏は妻の不倫に気づいていなかった。調査を通じてマルヒの性格なども想像できていたが、まことに好人物であった。仮にも、妻の素行を疑うなんてことは微塵もなかった。しかし、夫人のほうは内心恐れおののいていたのだ。

 井口夫人の新しい依頼案件は、被調査人が不倫相手の娘。井の頭線の線路に近い広大な土地に母屋があり、結婚して子供も居る娘の家はその敷地内に新築されていた。銀行マンの夫と子供二人、表向きは質素な印象だったが、莫大な資産を背景に極めて優雅に暮らしていた。したがって、井口夫人の本当の調査の目的は、俗に言う(弱みを握っていたかった)のである。夫人とて、本当の目的をあからさまに言えず、「ちょっと調べてみて」と、ことさら簡単に頼んできたが、犬鳴は、そんな依頼人の深層心理はお見通しだったし、夫人のほうも、この探偵、私の秘密も承知しているだろうし、今回の調査の核心も理解しているはずだ。この頃には、そんな阿吽の呼吸で通じ合えるほど、井口夫人は犬鳴を信頼していた。
充分な経費を貰い井口夫人の不倫相手の娘に対する調査は綿密に実施された。まったく身に覚えの無いことで、こんなに執拗に調べられたほうはたまったものではない。普通はそう思うだろうが、実は、それなりの原因は有った。最初に手を挙げたのは娘のほうで、井口夫人は対抗上調査に踏み切ったのであった。自分の母が悲惨な死を遂げた後、その理由が父の浮気だと知った娘は、自分なりに色々調べて、その相手が同業者の妻であるらしいことを突き止め抗議した。といっても、例えば、損害賠償を求めたり、また、夫や世間に知らせるとか、脅したわけでも、嫌がらせをしたわけでもない。ただ、(貴女は酷いことをした。私は一生怨みます)という内容の手紙を送ってきただけである。娘は、探偵を雇って調べたりせず、亡くなった母親の日記やメモから推量したに過ぎず(動かぬ証拠)は持っていなかった。ただ、若い女性の(母を死に追いやった憎い人)という感情の所産であった。ーーーーーーーーーーーーーーーーーー