再び沈黙が続いた。依頼人は俯いたまま身じろぎもせず、かといって、じゃあと言って席を立つ気配も無かった。僕も困ったが折角母親から(福田さんに相談しなさい)と言われてきた依頼人である無碍にも出来ない。僕はおもむろに、(さっき、僕は奥さんの提案を否定しましたが、だから何も出来ない。ということではありません。ただ、おっしゃったような事は探偵社のメニューに無い作業です。だから、費用も、勿論僕が勝手にやることはありませんがお高いと思われるかもしれません。もしかしたら、これから離婚ということになるかもしれません。そうするとお子さん二人との生活のこともあるでしょう。ここで徒にお金を使うのもどうでしょうか)正直なところ、現在事務所の経済状況は良好で、今目の前に座っている依頼人から、なけなしのお金を出させることの心苦しさもあった。
噛んで含めるような僕の言葉が通じたかどうか、依頼人はまだ黙って、しかし、今度は顔を上げ真っ直ぐ僕の顔を見つめている。そして、「福田さんのおっしゃる事は良く分かりました。費用のこともご心配有難うございます。ただ、私は悔しくて仕方ありません。主人が会社を興した頃、経済的に苦しい時期があり、私なりに協力してきたつもりです。妻として当然かもしれませんが、実家で借金したこともあります。私の時計を、私自身が質入したことだってあります。)と、ぽつりぽつりと話し始め、とにかく悔しいの一点張りである。「おっしゃるように、人の心を変えようということは困難でしょう。でも、私は、あの二人を許せません。不幸になってもらいたいのです」と言ったあと仰天するようなことを言った。
「私は、夫の浮気を薄々感じていましたが、調査をお願いする前に確信を持ったのです。ただ、証拠が無く、夫から(そんなに疑うんだったら調べてみたらいいじゃあないか)と言われ、お願いしたのですが、1ヶ月ほど前自殺を試みました。だけど死ねなかったのです。」僕の少し驚いた顔を見て、何故か薄く笑って依頼人はこう続けた。「住んでるマンションの5階から飛び降りたのですが、気がついたら病院のベッドでした。母に聞いたのですが、胸とお腹を強く打ったらしく、もし頭から落ちていたら死んでいたでしょう。まだ胸にギブスをしています。」
「私は一度死んだ人間です。この先お金をいくら持ってても仕方ありません。実は今、35億円持っています。福田さん全部使って下さい。私のお金がなくなっても母が70億円持っています。子供たちの将来も心配ありません」と言う。依頼人の母親は、同じようなことをされたら大変だ。と思って、とにかく僕のところに行って相談して来い。ということらしかった。自殺未遂の話も驚いたが、35億円全部使ってくれ。にも正直驚いた。聞くと、一昨年、実父が亡くなり、同じ時期に、実家で経営していた銭湯を廃業し、その跡地が地上げにあい200億円で売却したらしい。これを、母親と、弟の三人で相続し、依頼人が35億円を得た。その地上げも夫の会社が手がけ、夫も莫大な収益を上げたらしい。世はまさにバブルのまっ最中。貧乏探偵の僕ですら1万円が千円に感じる頃だった。---------