探偵物語 3

探偵日記 7月4日金曜日 雨

朝4時30分、小雨の中散歩に行く。何時もの高架下までタイちゃんを抱っこして。ところが、することをするとさっさと帰ろうとする。(なに、もう帰りたいの)と聞くと、ワンとは言わなかったが帰りたい素振り、仕方なく15分ほどで切り上げる。飼い主に似て雨が嫌いらしい。
それからゆっくりして、11時過ぎに家を出る。出掛けに「貴方、今日は私達の結婚記念日よ覚えてないでしょう」と言われるが勿論記憶にございません。(笑)毎年同じことを言われているのだが、覚えようとしないから手帳にも書いていない。というわけで、「ステーキの松坂亭を予約しておいて」と指示される。松坂亭は沖縄出身のマスターが一人でやっている店で、見張り番じゅあなかった妻のお気に入りの店。僕も嫌いじゃあないから、まあいいか。

探偵物語 3

神田駅前で約3年営業し、新宿に移転。本格的に探偵業に励む。東京探偵事務所と同じように、職業別電話帳に3分の1の広告を出し、それからの毎日はひたすら依頼の電話を待つ生活になった。今でも良く覚えているが、最初の電話で「あの~そちらは探偵事務所さんでしょうか」と言われた時は心がふるえた。(そうです)呼吸を整え短く応える。東京探偵事務所のN所長を真似て、まず依頼人に話させることにした。ところが、こっちが黙っていると先方も何も言わない。そうか、何をどのように話し始めたら良いのか判らないんだな。そう思った僕は(ご主人のことですか)と優しく聞いた。依頼人は「ハイ」と言ってまた黙った。これで、電話の主が夫の素行調査を頼みたいことが分った。(どんな状態ですか)と言って促す。それから約1時間、依頼人が調査を思い立った経緯を細かく聞いて、いずれにしても調査をして事実関係を確認するのが先決でしょう。その後のことは改めて相談しましょう。ということになり、面談の約束が成立した。

新宿の探偵社だからその周辺の住人が依頼するとは限らない。この依頼人も千葉県市川市の人だった。こうして、電話帳の広告を見た依頼人がポツポツと入り始め、我が「新宿探偵事務所」も人手が欲しい状況になってゆく。当時は、広告宣伝の方法として99パーセント電話帳に依存していた。例えば、名刺大の広告を出せば4~5人の調査員を抱えても経営は成り立った。僕は、このほか、新聞の折り込み広告や、電柱にポスターを貼ったりしたがほとんど効果は無かった。ただ、帝國興信所に勤務する叔父の力添えで中小の企業からも依頼が入ってきて、何となく事務所の体裁も整ってきた。

昭和50年に入り、探偵業界は思わぬ展開になり、以来、業界は戦国時代に突入する。旧、日本電電公社は社内規定で(1社1エリア1ページに限る)としていた。例えば、東京都内の職業別電話帳に広告を出す場合、一つの会社は1ページ以上は出せなかった。したがって、どんな老舗でも、帝國探偵社のように規模の大きい会社でも半ページ程度の掲載に留まっていた。ところが、電話帳の効果に着目した関西の探偵社がこぞって東京に進出してきたのである。(銭は汚のう儲けてきれいに使うんや)関西商人のポリシーをひっさげ、「大調」「アイアイサービス」を先頭に10社あまりの探偵社が進出し、やがてNTTとなった公社が、広告部門を別会社にして利益優先の方針を打ち出したため(1社1エリア1ページ)の内規を無視し、彼らの希望に沿って大量の広告を取り付けたのである。---ーー