探偵日記 04月11日水曜日 晴れ
予報では昨日より2,3度高いということだったが、風が強く、まさに花冷えの陽気だ。10時前事務所に着く。待ち人来たらずで、待っている電話がかからない。まあ、依頼人の都合もあるだろうが何事もはっきりしないということは精神衛生上よろしくない。ただ、昔のように電話機のそばでじりじりしながら待つ必要はない、いつでもどこでも携帯が営業してくれる。
株式会社ティー・ディー・エーの歴史
< 転換期 >
港区溜池近くにあるK社の本社。午後1時、総務部長のSさんを訪ねる。応接室に通され待っていると「やあやあ」とにこやかにSさんが入ってきた。僕は立ち上がって名刺を差し出す。Sさんは、「何人ぐらいでやってるの」とか「今忙しいの」などと聞いてくる。まあ、独立して間もないことだし、ほらを吹いても通じないだろうと思った僕は、現状を正直に話した。加えて、今特に忙しくないことも伝える。
その後、Sさんから調査依頼の打診があり、即答して引き受けたのだったが、Sさんから提示された報酬の額を聞いて僕は腰を抜かしそうになった。当時は、田中角栄首相の打ち出した(列島改造論)とやらで、景気が上向いてきていた。特に、ゼネコンやデベロッパーがその恩恵によくしていたように記憶する。案件の内容は(産業スパイ)某社の機密を探れ。というものだった。ただ、今と違って当時の企業は危機管理の意識も薄く、仮に、対象の企業の特定された一つの商品の製造台数とか販売実績の把握は、やりようによっては可能であった。着手金30万円、成功報酬3600万円。但し、成功報酬の決済は毎月100万円づつ3年間で支払う。というものだった。神田駅前の僕の事務所の家賃が月5万円の時代である。帰り道、僕は(ふ~んなるほど)と思った。依頼された案件の内容はSさんの会社のある部分の存亡を左右するぐらいのものだった。そして、僕の事務所の方向性も、この仕事を引き受け成功させたことによって、大きく変化した。-----------