犬鳴探偵事務所 9

3月06日水曜日晴れ

本当に春らしい朝だった。タイちゃんに少し早く起こされたが気持ちよく散歩に出れた。今日は10時に顧問先を訪問するよていがあり、9時に家を出る。10時半事務所へ。留守中に入った電話の折り返しを2~3本してパソコンに向かう。----


犬鳴探偵事務所 9

何時もなら現場に出ない犬鳴だが、事務所から近いということもあって、日課の麻雀をお休みして調査に参加した。彼らが陰で、犬鳴が現場に来ることを嫌っているのも承知していたが、依頼人の夫はともかく、ソバージュのモーちゃんを一目見たくてやってきたのだ。JR信濃町駅のそばに犬鳴には忘れられない思い出の喫茶店がある。その名は「タンゲーラ」店の名前でも分るように、タンゴの曲しか流れない。かって、移転する前の店は洞窟の中のようなシックな雰囲気で、犬鳴は気に入ってよく通ったものだった。甘酸っぱい感傷に浸りながら張り込むK大学付属病院の正門に、マルヒの柳原隼人が現れた。

写真を持って張り込んでいるほかの調査員を見ると全く反応しない。本人を目の当たりに見ても気づかないで居る。それどころか、チーフの和久田を囲んで、何が可笑しいのか大笑いしながらダベっている。犬鳴はそんな調査員らを無視して信号を渡った。マルヒは正門を出ると外苑東通りを左に歩きはじめている。すぐに車両班の横を通り過ぎ、四谷三丁目方向に進む。その頃には徒歩尾行の三人もようやく気づき、通りの反対側をこっちを見ながら尾行に加わった。車両班も速度を落として尾いて来る。調査員をめったに怒らない犬鳴だが、若い調査員らには煙たい存在のようで、犬鳴もある程度承知している。しかし、5人の10の目で見ていながらマルヒを見逃している。

或る時、経験豊富なはずの和久田が失尾し事務所に戻って来た。「すみません。警戒されて変な動きをするものですから」と言い訳をする。犬鳴が(どうして?だって、今日が初日だろう、警戒するはず無いだろう。じゃあ何処で変に思われたんだ。)と聞くと、「分りません」と言う。和久田の言い分は、マルヒの運転が変則的になったので、用心して間隔を空けたため見失ったらしい。ちょうど、ほぼ全員揃っていたので良い機会だと考えた犬鳴は(馬鹿野郎、そんなことがわからないようなら探偵なんて辞めちゃえ、蕎麦屋の出前持ちにでもなったらどうだ)大声で怒鳴りつけた。全員固まって目が点になっている。日頃元気のいい和久田は涙目になってしおれている。初めてといっていい。犬鳴は調査員を叱咤する時も優しく云う。気の弱い調査員は黄信号で停車する。赤信号なら、例えマルヒの車両が走り去ろうとも躊躇なく停まる。蕎麦屋の出前持ちならそれでいい。

マルヒの柳原隼人33歳はなかなかの好男子だった。身長175センチ位、中肉で色白、頭髪は真ん中から左右に綺麗に分けており、歌手の布施明をもっとにやけさせたような顔をしている。高そうなジャケットに薄手のマフラーを巻き全体に育ちの良さを思わせた。10分も歩いただろうか、外苑東通りと新宿通りが交差する四谷三丁目の信号をスクランブルに渡り、四谷方向に少し行った「杉大門」通りの入り口にある喫茶店に入った。徒歩尾行の調査員全員後方に待機し、富士銀行(現在のみずほ銀行)前に車両班の車も確認できた。

犬鳴は、徒歩尾行のチーフの和久田に(俺はちょっと店に入ってすぐ帰るから後は頼むよ)と言って、数分空けて通りと同じ名前の喫茶店に入る。多分、ソバージュの工藤沙織も居るはずだ。「杉大門」という喫茶店は、見た以上に狭くカウンターに、四人掛けのテーブル席が5つ。犬鳴はカウンターに座ってコーヒーを頼む。ママは一目見て沖縄か鹿児島の出身と分る濃い顔をして驚くほど愛想が無い。おそらく亭主だろう、こっちもにこりともしないで、客のオーダーに返事もしない。後で、このママが友人の叔母であることを知ったのだが、勿論この時はそんなことは分らない。

案の定、奥まった席にマルヒとソバージュが居た。依頼人の言うように、マルヒは怖がる様子も見せずソバージュと歓談している。ソバージュ牛子も可愛く見えた。むしろ、(いい女)の部類に入るだろう。依頼人に比べ体付きはやや骨ばっているが、その分野生的に見え性的なフェロモンを感じさせた。犬鳴は(亭主ってやっぱり女房と真逆のタイプをもとめるのかなあ~)などと、思いながら、喫茶店杉大門をあとにした。ーーーーーーーーー