探偵日記3月07日木曜日晴れ
昨夜、久しぶりに張込尾行の調査に参加した。マルヒが行動せず徒労に終わったが、調査員らはマルヒを確実に把握したのでよしとしよう。僕は、午前3時帰宅。さすがに6時には起きれずタイちゃんの散歩は代わって貰った。朝ごはんを食べて11時、家を出る。-------
犬鳴探偵事務所 10
それにしてもどうするつもりなんだろうか。不倫相手の工藤沙織は、もし柳原と結婚できたなら超のつく玉の輿だ。彼女が必死になるのも十分頷ける。最近でこそ、医者の価値も疲弊し、さほど有難がられなくなったみたいだが、当時は、女性が自分の夫とする対象の上位であることは周囲も認めるところで、特に、ほとんど奴隷か召使(看護婦さんには大変失礼だが)みたいなもので、同じ職場の医師に口説かれれて断る者など居なかった。と、犬鳴は勝手に思い込んでいる。余談だが、犬鳴の後輩にちょっと不良な奴が居て、彼は大手のデパートに就職したのだが、数年後ひょんなことから再会し飲んだ時、その後輩曰く、「先輩、デパートって夢のような職場ですよ。僕は10年余りで、2000人くらいの女性としました。」後輩は、自分が勤務するデパートに出店する様々な会社の派遣店員はまさに口説き放題だそうだ。犬鳴は聞きながら、悔しさの余り、(そんなことはあるもんか)と思ったが、真実は分らない。
結局その後輩は多重債務者になりデパートも辞め郷里に帰った。と、人づてに聞いた。本件のマルヒ柳原隼人はどうだろうか。後輩のように、手当たり次第とは思えないが、相当に女好きに見えた。ハンサムで高収入のうえ社会的信用度も申し分ないとなれば、看護婦ならぬ他の女性たちも放っては置かないのではないか。やはり、自他共に認める女好きの犬鳴は、溜息の出るような男である。
翌日、事務所に出た犬鳴は、早速和久田を呼んで報告を聞いた。工藤沙織は新宿区富久町のアパートに住んでいるが、二人は喫茶店を出ると新宿二丁目にあるすし屋に入り小一時間過ごした後、恋人同士のように縺れあいながら、靖国通りを5分ほど歩き、あけぼの荘と書かれた二階建ての木造アパートの201号室に入ったという。郵便受けに「工藤」と表示されているから、ソバージュの部屋に間違いない。そして、マルヒは、朝8時過ぎに工藤の部屋を出て、信濃町駅まで歩き、タンゲーラでモーニングを食べて出勤した。「主人もあの女を怖がって」という依頼人の(あの女)は、実は依頼人、すなわち自身の妻のほうではなかったのか。犬鳴は依頼人が哀れに思えた。
午後、その依頼人がベンツでやって来た。ソファに座るなり「ああ、昨日は空振りだった。主人から連絡が来て、急患が入って大変だったみたい」と言う。どうやらマルヒは勤務先の事情を口実にしたらしい。今日の依頼人は精神的に安定しているようで、言葉つきも穏やかで、いわゆる、(いいとこのお嬢さん)風である。(まいったな)犬鳴は、機嫌よく目の前に座っている依頼人に真実の報告をすることを躊躇った。本当のことを云うとまた荒れ狂うかもしれない。しかし、絶対に避けて通れない場面であった。
犬鳴は意を決し、何でもないように話しはじめた。(まあ、浮気をする夫は他愛の無い嘘を良くつくものです。麻雀してたとか、残業でとうとう朝になってしまったとか。でもそれは、妻に対する愛情の証でもあるんですよね。妻子や家庭を大切に思っていなければ、家に帰る必要もないし、妻に対して言い繕うこともない)依頼人は(そんなもかな~)というように茫洋とした感じで聞いている。続けて(やっぱりご主人は工藤が怖いんでしょうかね~、実は昨日、二人は会っったんです。結局工藤の部屋に泊まったんだけど)犬鳴は独り言のように告げて、そっと依頼人の顔を盗み見た。-----------