犬鳴探偵事務所 11

探偵日記 3月08日金曜日晴れ

今日も暖かい朝である。5時半タイちゃんに起こされ散歩に出る。昨夜少々飲みすぎて体がだるい。反対にタイちゃんは元気一杯。僕をぐんぐん引っ張って自分の好き勝手にコースを決めて走り回っている。10分もすると僕の体も目覚め楽しく散歩した。また今日も食後の仮眠をせず事務所へ。
13時、顧問先に打ち合わせに行く。また、不良債権が発生し、その回収のための調査である。今回は、債務者の対応がよっぽど悪かったとみえ、担当者は(徹底的にやりたい)と息巻いている。どんな場合でも人は周囲に好かれなければならない。---------

犬鳴探偵事務所 11

依頼人は、エッという顔をした。犬鳴の云ったことが、瞬間理解出来なかったようで聞きなおすような表情をした後、その表情が一変、赤鬼のような形相になった。依頼人は、昨夜夫から(急患が入ったので帰れないかもしれない)と言われ、事実帰宅しなかった。多分依頼人は、「ご苦労様」と、夫を労ったはずだし、体調をも気遣ったことと思う。しかし、目の前の探偵は、夫は、不倫相手と食事をしたあと彼女の部屋に行き朝まで過ごしたという。まんまと騙されたわけである。

怒りの表情が治まった後、体中の力が抜けたようにソファにもたれ、「先生、私どうしたらいいんでしょう」と聞く。先日の気迫は無い。縋りつくような目で犬鳴を見てとうとう泣き出した。依頼人が会話しながら泣くことは良くある。だから、犬鳴も別に驚きはしないが、あんなに元気の良かった依頼人が。と思うと可哀想になる。今の依頼人の心境は、夫を看護婦風情に寝取られた。とは思っていないはずだ。少々我がままで、何不自由なく育った依頼人は、今まで本当の挫折を経験したことは無いだろう。今度のことも、世間に良く聞く(亭主の不倫)で、単純に浮気だろうと割り切ってきたはずであろう。まさか、夫が自分や子供を棄てることなんかないだろう。スタイルや容貌に加え学歴と家庭背景、何一つとって比較しても工藤に劣る部分は無い。犬鳴は、これまでの依頼人の話から、彼女が都内有数の総合病院の娘であることを知っている。したがって、柳原が、東北出身の冴えない看護婦と家庭をチェンジするつもりのないことを。では何故?

後日、犬鳴は、マルヒこと柳原隼人の述懐を聞いたことがある。それによると、勿論、妻子を棄てるとか、工藤と再婚すなどの気持ちは全く無かったという。また、工藤に、死んでやるとか、病院中に触れ回って、貴方も勤務していられないようにしてやる。と脅されてはいたが、それが怖くてずるずる関係を続けたわけでもないという。マルヒはこう云った。「妊娠したと聞かされたときは正直困ったなと思いましたし、家に押しかけてこられた時も妻に申し訳ないと思いました。妻以外の女性とこういう関係になるということも言語道断で、言い訳のしようも無いことでした。ですが、どんなことを言われても、何をされても彼女と別れるなんて一度も考えませんでした。妻にも(あの女の何処が良いんだ)と責められましたが、とにかく好きだったのです。妻との結婚はそういう意味では失敗でした。いや、妻を嫌いだといっているわけではありません。犬鳴さんには大分無理難題を云ったようですが、僕にはとても可愛い女房です。矛盾しますし上手く云えないんですが男と女の相性というか」

勿論依頼人の居ない場所での会話だったが、犬鳴にも何となく分るような気がした。確かに、夫婦に限らず、パートナーを見て(ヘ~あんな人と)と、感じることは良くある。それこそが、男女の奥深い所以であろう。

その後、三すくみの状態で柳原隼人を被調査人とする素行調査は続いた。マルヒは相変わらず妻を欺きながら工藤沙織と密会を重ね、依頼人の柳原夫人は日課のように犬鳴に会いに来る。3ヶ月もしただろうか、調査員の一人が(所長、ソバ~ジュ目立ってきましたよ)と言って、尾行時のスナップを犬鳴に見せた。犬鳴には、特に大きくなっているようには見えなかったが、柳原夫人に見せると「もう5ヶ月を過ぎている」と断言した。-----------