2月28日木曜日晴れ
如二月も今日で終わり。本当に寒い日々だったが、弥生三月ともなれば気分も違ってくる。多少寒くともすぐそこまで訪れているだろう春の気配を感じることができるから。特に、今日は暖かい。久しぶりにコートを着ず事務所に出た。
犬鳴探偵事務所 4
冗談ともつかない井口夫人の言葉を聞き、犬鳴は思案した。といっても、返事を渋ったわけではなく、鸚鵡返しに(有難うございます)と、どちらともつかない感じで、お礼ともとれる極めて曖昧な対応をした。井口夫人が大層酔っているわけではない。ましてや、犬鳴をからかっているとも考えられない。しかし、と、犬鳴は考えた。確かに目の前に座っている極々普通のおばさんはかなりの資産家であり、夫がいるとはいえ家計を握っているのは紛れもなく夫人で、しかも自由に使える環境にある。僅か数ヶ月の付き合いだが、夫人が言ったように、好意を持たれているのもそのとおりであろう。だけど、じゃあ、どの程度の資金を想像しているのか、お金を出してもらったら事務所のことにも色々注文をつけてくるかもしれない。
犬鳴は、その間、雑談で座を取り繕い、次に云った夫人の「私は本当に気にしてるのよ事務所の狭さを、多少のお金であんたを縛るつもりもないから」という言葉で(よし、乗ってみよう)と決心した。(奥さん、おしゃるように確かに不便は感じていました。だけど僕の仕事は収入が安定しません。そりゃあ、1年が終わってみればほどほどの売り上げは出来ているし、均せば何とかやっていけてます。だけど、僕は奥さんに何もお返しするものがありません。)「だから云ってるじゃあないの私は何も要求しないって、ワンちゃん案外気が小さいのね」「まあ、私はワンちゃんのそういうところが好きなんだけど」と言って笑う。
その時は実感しなかったが時はバブルの真っ最中。仮に、新宿で30坪程度の事務所を借りようとしたら数千万円はかかるだろう。犬鳴は再び、目の前の井口夫人がどの位を考えているのか、もし、1億円って云ったら何と云うだろうか。勿論駆け引きするという気持ちではない。仮に、この話が冗談で終わっても、上客の依頼人である井口夫人と険悪な関係になりたくなかった。夫人は僕を、仕事の面で信用している筈だし、一人の人間としても普通以上の好意を持ってくれている。
犬鳴は話を変えて、こんなことを言ってみた。(僕の父親は終戦後満州から引き上げてきたんだけど、日本軍の隠匿物資を処分してかなりのお金を持ち帰ったのに、1年も高級料亭に居続け全部使ってしまったらしい。もし、西口の土地でも買っておいてくれたらって思います)そのあとひとしきり、とにかく下戸のくせして無類の女好きだった父の、悪口とも回顧ともつかない感じで、笑い話のように云って、夫人の感想を待ってみた。すると、井口夫人は「そうよね~ワンちゃん昔角筈って言ってた頃、大きな浄水場が有ったのを知ってる?私の父があそこら辺りの土地を買い占めて、最近地上げ屋さんがやいのやいのって云って来るから煩くて仕方ないのよ。ああそうだ、どうしても断れない筋から頼まれて少しだけ売ることにしたんだけど、ワンちゃんそれ使う?」と言う。かっての角筈は現在、新宿西口公園なっているが、その角にある交番の斜め前の土地500坪を売却するという。
1坪800万円として、400億円。税金を差し引いてもその半分を夫人は手にする計算だ。それを使えと言っている。犬鳴は内心仰天したが、最近、話だけは嫌と言うほど聞いている。身近なところでも、友人の所有する1ルームマンションが、購入した時の価格の5倍で売れたらしい。最初、不動産業者から(売ってくれませんか)と、売買価格を聞いた友人は「からかわれているのかと思ったよ」と言っていた。犬鳴も、このおばさん、もしかしたら少し変なのかな。なんて思ったが、(いえいえそんな大きなお金は必要ありません1億円も有ればお釣りが着ます。ところで、奥さんのほうで場所の希望はありますか?事務所にいらっして頂くのに都合の良いところがいいでしょう)「ううん、私は何処でもいいわよ、どうせ小田急線で新宿まで来るんだから、まあ、駅に近いところがワンちゃんにとってもいいんじゃあない」
この日のこんなやり取りで、犬鳴の事務所は移転に向けて始動した。場所は新宿駅周辺、電話番号が変らないところ。が、第一条件で、規模は30坪以上。ところが、仲介の不動産会社から思わぬ支障が告げられた。---------