犬鳴探偵事務所 38

探偵日記 4月19日金曜日曇り

昨日入った案件は、夫からの依頼で、妻の素行調査である。夫は妻が時々外泊することで不審を抱いた。僕はご依頼人と会っていないが、なかなかハンサムで腕の良い営業マンといった印象のようだ。この僕でさえ結婚以来ただの一度も外泊はしていない。そりゃあ女房殿が海外旅行に行って自由になったとき、仲間と一泊のゴルフ旅行に出かけることはある。ただ、朝(行ってきま~す)と言って家を出てそのまま帰らないことはしないし、嘘の理由で女性の部屋に泊まるなんて怖いこともしない。何故ならば、僕の奥さんは(探偵の女房)だから。もう随分昔のことだから白状するが、僕の車の屋根についていた落葉で、その頃ちょこっと付き合っていたホステスの自宅を突き止められたことがある。とにかく(出来る)奥さんなのだ。

最近は、僕自身すっかり大人しくなって、俗にい言う(濡れ落ち葉)に成り果てているので、監視の手を緩めている。というか、夜一緒にご飯を食べよう。と誘っても煩がられる始末。往年の(夜の帝王)も形無しである。そんなわけで、主婦が外泊するなんて、他人事ながら絶対に許せない。例え、どんな理由があるにせよ。--------

犬鳴探偵事務所 38

午前9時30分、曙橋の事務所に到着。何時もと変わらぬ朝である。三々五々出勤する調査員達も普段と変わらない幸せな顔をして、何が楽しいのか嬉しそうに談笑している。責任者が、こんなにドキドキそわそわしているとも知らずに。
正午になった。みんなはランチに出かけたが犬鳴はとてもそんな気になれず、調査部長に1万円渡し、(俺は後でいいから行っといで。)と言って、留守番役に回った。みんなが出て行って間もなくドアのチャイムが鳴る。犬鳴が出ると廊下にひょろっとした若い男が立っていた。(どちら様ですか)と聞くと、「あの~オーナーの使いでこれを持って参りました」と言いながら大丸デパートの紙袋を差し出した。(まあこんな所ではなんですから)と言って招き入れる。若い男は、探偵事務所なんかに来た事もないだろう。おどおどした感じで、それでも興味深そうにきょろきょろと室内を見回している。事務も居ないので仕方なく犬鳴がお茶を出し、(領収書は?)と聞くと、「いえ結構です。オーナーもそうは言ってませんでしたから」と言う。犬鳴は、紙袋をチラッと見て、一昨日と同じ古新聞に包まれている束を確認し、(確かにお預かり致しましたとお伝え下さい)と言う。若い男は、長居は無用とばかりにそそくさと帰っていった。

犬鳴は、一束取り出して新聞紙の日付を見ると昭和のものだった。中身は同じように百万円で、それを無造作に包んだ大きな固形物が三つ入っている。オーナーと呼ばれているあの女性は犬鳴との約束をしっかり守ったようだ。しかし、彼女はどんな商売をしているのだろう。犬鳴は、三日かで3500万円を貰ったが、その前に、遁走したヤクザに1億円払っている。(風俗業とはそんなに儲かるものなのだろうか)若い頃、悪友と飲んだ後、面白半分で吉原のトルコ風呂(今は、ソープランドという)に行った経験はあるが。歌舞伎町や渋谷のど真ん中にそんな店があるとも思えない。(東京って所は不思議で面白い)そんな感慨に耽っていたらみんながランチから戻ってきた。

依頼人は領収書は要らないという。ならば、正直に事務所の収入にする必要はない。そう考えた犬鳴はひとまず自分の個人口座に入金することにした。その足で、懇意にしている刑事の居る新宿警察署に電話を入れる。幸い刑事は出勤していた。聞けば今日は泊まりと言う。(ちょっと頼みたいことがあるんだけど)と言うと、阿吽の呼吸で、「分ったややこしい話じゃあなかったらこっちにおいでよ」と言う。何も悪いことをしていなくても警察は嫌なところだ。特に新宿署は(淀橋)と言われている頃からしょっちゅうお世話になったところである。念のために断っておくが、泥棒とか詐欺の類ではない。喧嘩沙汰である。犬鳴は昭和38年に上京したが、アルバイトにキャバレーのボーイを選択した。当時学生のバイトは結構有って、真面目な奴は書籍の配達とか食堂の出前持ちなんかをやっていた。しかし犬鳴は本来チャラチャラしたところを好む。キャバレーならばホステスさんも大勢居て、もしかしたら可愛がってくれるかもしれない。そんな極めて不純な気持ちで応募したら即決採用された。今考えるとこれがいけなかった。ホステスさんには振り向きもされなかったが、ボーイ仲間とつるんで遊ぶ面白さを覚えた。午後11時30分、ラストソングが流れ閉店後の後始末は翌日に回し、よーし、とばかりに歌舞伎町に繰り出すのが日課となった。当時は、(深夜喫茶)なるものがあり、コーヒー一杯で朝まで屯する。そして、ほかのクラブのボーイや、ヤクザの予備軍のチンピラと衝突するのだ。まるで、蜘蛛のようなものですれ違っただけで(なんだこの野郎)となる。歌舞伎町の場合、区役所通りを挟んで西武新宿駅方面が新宿署、明治通り側が四谷署の管轄である。犬鳴は両方の警察署を行ったり来たりした。しまいには(なんだまたお前か)と言われる有様で有名人になったが、勤め先のキャバレーはあっけなくクビになってしまった。

この日訪ねた刑事も少し前まで四谷署に居た。勿論、喧嘩三昧の生活はその頃だけで、探偵になってからは言葉で威嚇することは有っても手を出すことはなくなった。一つには、犬鳴自身、(自分はそんなに強くないんだな)と気づいたからで、次に(負けるが勝ち)という精神を身につけたからである。どんな場合でも喧嘩をして得することはない。ただ、男子として、(ここは引けないな)と思うことはある。そんな時は、気迫では負けないように構えてみせる。そしてほとんど実際の喧嘩にはならない。
「今日はなんだい」空いてる取調室で二人きりになると、刑事は弟に言うような優しい言葉で聞いてきた。(池袋に知っている刑事さんは居ませんか。実は僕の知り合いが経営している店にガサが入って、とりあえず体をかわしているんだけど指名手配になってないか心配しているんです)「なんていう店だよ」(学園生活)っていうらしいです。知り合いはXっていうんですが)「ああそう。うん、居るよ。俺の後輩だ。だけどそいつが担当しているかどうか分んないからとりあえず聞いてみるか」と言って、取調室を出て捜査の室へ向かう。-----