犬鳴探偵事務所 27

探偵日記 4月3日水曜日雨

良く降るものだ。昨日に続き、今日も夕方あたりまで大雨の予報。特に、午後3時頃は雷を伴った突風や場合によっては竜巻もおこるとか、それでも、朝目覚めると僕の部屋のドアを気がねそうにガリガリとする音が聞こえる。5時50分、昨日と同じ傘を差して高架下に駆け込む。ところが、今日は少し遅かったせいかあちこちに天敵ともいえる犬達が居て、一本道の高架下ゆえ避けようが無くニアミスを繰り返した。タイちゃんは、ミニチアダックスとの相性が特に悪い。なのに、運悪く前方に、ダックスを2頭引きの婦人が見えた。僕は慌ててUターンする。すると後方にやはりダックスを2匹連れた男性が居て挟み撃ちにあってしまった。覚悟を決めた僕は、まず夫人のほうに進む。2匹に気づいたタイちゃんは遊びたくて(狂ったように)吠えながら突進する。ダメ駄目と言い聞かせながら無事通過。数分後、後方で4匹のダックスが猛烈に吠えあっている声が聞こえた。タイちゃんもそれに加わろうと必死で引き返そうとするが、僕ががっちりリードを引き寄せ阻止する。とまあ、こんな状態で35分の散歩を終えた。
14時に顧問先の社長が来所の予定。ご飯を食べた後、早々に仕度をして事務所へ。

犬鳴探偵事務所 27

11月の終わりから12月にかけて、ツアー費用の安い時を見計らって香港に出かけた。飛行機嫌いの犬鳴は、(ああ、俺の一生もこれまでか)と観念して搭乗する。実は、この日に先だち、悪友らと台湾に行った。当時、台湾旅行と聞けば、男性は顔がほころび、女性は逆にしかめる。ところが悪いことは出来ないもので、羽田空港に着いたあたりから猛烈に寒くなって悪寒がし、高熱が出てきた。台北に到着してホテルに入る頃には最高潮に達し、皆が街に繰り出すのに犬鳴はゴメンなさいをして部屋に籠った。やがて皆がご帰館に及び代表者が5~6人の可愛い女の子を連れて犬鳴の部屋をノックする。ベッドから起きだし(なあに)と言うと、「ワンちゃんこの中から好きな子を選んでよ」と言う。彼女達はここぞとばかりに精一杯可愛い仕草をして売り込むのだが、犬鳴は高熱と悪寒でガタガタふるえてそれどころではない。代表者もそんな犬鳴を見て察したか「明日のゴルフ大丈夫かなあ」と言いながら、女性の斡旋だけは諦めてくれた。翌朝、昨日のことが嘘のように元気になり、有名な淡水というコースで行うコンペに参加した。ところが、帰路バスに乗ったあたりから再び昨日と同じ症状になり、ああ、今夜もひざを抱えて寝るのか。と思ったが、最後の夜だから是非、というみんなの言葉に応じて台北の夜の街に出て行った。暗くなると具合いが悪くなり、夜が明けると元気になる。何だか仮病みたいに思われるのも嫌なので、我慢して宴会には加わったものの、さあ、という時には立っていられないくらい悪化する。この日も犬鳴だけが良い子になり、みんながペアで帰る中、犬鳴一人淋しくホテルに帰った。ところが、また朝になるとすこぶる元気になって、帰国前のプレーは支障なく出来た。仲間に白い目で見られながら、生まれて初めての海外旅行を経験した思い出がある。

それから、歌舞伎町のクラブで開催した、韓国でのゴルフコンペに参加し、2度目の海外旅行をしたが、詳しく書くと(いい格好するんじゃあないよ)と言われそうなので割愛するが、意欲満々で臨んだキーセンパーティも不首尾に終わってしまった。暫くは(ワンちゃん、余程奥さんが怖いのだろうか)という風説が業界に流布された。滑り出しはそんな具合だったが、好むと好まざるに関係なくそれから三十数回いろんな国に行く羽目になり、その都度、機体が成田空港の滑走路に(コツン)と着くまで、何度と無く犬鳴の人生は中断された。

東京、銀座。我が国最大、且つ、上品な繁華街、いってみれば、大都会東京のシンボルのような街。犬鳴も常に憧れはしたが、今では、(とてもそんなレベルではない)と、半ば諦めほとんど憧憬の世界になってしまった(銀座)その外れの、人によっては銀座と詐称するかもしれない「港区新橋一丁目×番地」。土橋のインター横の首都高速の高架下をくぐり、第一ホテル脇のビルの一室に、怪しげな会社がある。表向きは経済誌を発行しているが、代表者の他女子事務員が一人いるだけ。時々、得体の知れない男が出入するが、どれも胡散臭い人相をしている。会長と呼ばれる代表者の手下であろう。ブローカーを生業にし、場面によっては、雑誌記者ともなり、ある時は、強面の団体職員にもなる。事実、会長のWは、同和会の役員も自称していた。犬鳴がまだ神田の探偵社に勤務していた頃、事務所で、この人物に依頼された仕事に失敗したことがある。当時の所長は小心な人で、言い訳を兼ねた事情説明をまだ入ったばかりの犬鳴に押し付けた。とはいっても、その頃、その探偵事務所には犬鳴以外に誰もいなかったから、必然的にそうなった。

ミスといっても、例えば、尾行に失敗したとかではなく、下命された日時に調査をしなかった。のであった。それだって、依頼人にしてみれば立腹するに値する。所長も、犬鳴も事務所の失態であることは充分承知していた。そうした或る日、犬鳴が生贄となり、Wの事務所を訪問した。犬鳴より2~3歳年上だろうか。小柄だがでっぷりと肥え、見ようによっては、何処かの右翼団体の首領に似た感じの男だった。以前にも数回、報告をするため会ったことがあるので自己紹介する手間は省き、椅子に座るなり率直に謝罪した。本来ならば責任者が来なければならないところだが、家で不幸が有り代わって自分が来たこと、もしお許し願えるなら再調査をさせてもらいたいこと、但し、料金は頂かないこと。などを真摯に述べた。
Wは、最初こそ不機嫌な顔で黙って聞いていたが「よし分った。しっかりやってくれ」と言い、謝罪会見はあっけなく終わった。事務所に帰ると、所長が心配そうな顔で「どうだった。」と聞く、犬鳴は日頃から都合が悪いと逃げを打つ所長を困らせてやろうと一計を案じ、(いやあ、とにかく責任者を遣せの一点張りで、場合によっては損害賠償を請求するって言ってます)と言ってやった。とたんに所長の顔が青ざめる。猫なで声で、「ワンちゃんどうしよう」と言う。まあこのくらいでいいか。と思った犬鳴は、(所長、しょうがないから僕が2~3日やってみますよ。それでも向こうが承知しなけりゃあ喧嘩しましょう)と言うと、早くも震えている。(まったく、女の尻ばっかり追っかけて、いざというときの意気地がないんだから)と思ったものの、犬鳴はそんな所長が好きでもあった。

その後、3日ほどサービスで尾行調査を行い、報告書を届けると、Wは、「ご苦労さん」と言って、君のことが気に入った。と言いながら、3日分の調査料を払ってくれた。その日から、Wは事務所を通さず犬鳴に調査を依頼するようになり、間もなく独立した犬鳴探偵事務所の良い顧客となった。

「ワンちゃん、ちょっとこいつを調べてくれ」と言って雑誌の記事と写真を見せる。写真のマルヒはT。我が国を代表する某大手企業の社長である。(会長、何か根拠があるんですか?)犬鳴が聞くと、Wはその風貌に似合わないくらい可愛い顔でニコリ笑う。そんなことは知るか。と言っている。要するに、ターゲットを決めて、無差別に調査を依頼する。W独特の手法である。丁が出るか、半が出るか。Wの、自分の勘に賭けた出たとこ勝負の調査依頼である。帯封の付いた100万円をポンと投げて遣す。「何か出たらあと5つな」と言う。-------