探偵日記 5月14日火曜日晴れ
今日は朝からすっきりと晴れて気持ちの良い目覚めだった。というわけではないが、4時半起床、同40分散歩に出た。タイちゃんは寝ぼけてたようだったが、(散歩命)の彼は数秒もすると気合が入り、1時間で5回ウンチをされた。朝早いので宿敵とも言える他の犬にも遭わず無事帰還。8時に朝ごはんを食べて事務所へ。
犬鳴探偵事務所 49
その日がやってきた。山口県下関市の女歯科医は、宇部空港からANAで羽田に着き、学会があるホテルに直行、午後5時、宿泊先のパシフイックホテルにチェックインした。38歳とは思えないほど若作りで、女優の山本陽子似のなかなかの美人である。山形先生が九州の大学で講義した際、一目ぼれしたことも頷けた。相思相愛とはこんなことをいうのだろうか。大勢の聴講生の中から彼女に目をとめた先生も先生だが、彼女のほうも(何て素敵な人だろう)とうっとりしたというから、男女の仲というものは摩訶不思議と言うよりほかない。10分ほど遅れてマルヒの山形先生が姿を見せる。前もって、部屋番号も聞いていたのだろう、待ち構えている探偵には目もくれず(笑)エレベーターで彼女のもとへ。
今日は2班に分かれて調査を行っていた。羽田から女性を尾行する者、クリニックからマルヒをマークしている調査員がホテルで合流した。犬鳴も少し前、ホテルのラウンジに陣取って、刻々と入る調査員らの報告を聞き、必要ならば指示を出していたが、まことに安易な尾行になった。というのは、犬鳴が女性の手紙を見てから今日まで、日々の行動こそ変化に乏しかったマルヒだったが、六本木のマンションの彼の部屋に特殊な工作を施した以降、山のような情報を得ていた。宇部空港からフライトする便名や時刻、羽田の到着時間、学会の場所、二日間宿泊するホテル、などなど。マルヒの元に飛んでゆきたい女性と、クビを長くして待ちわびるマルヒとの間で毎晩取り交わされるラブメッセージ。中には、とても文字に出来ないような、大人の男と女のやりとりもあった。具体的表現は控えるが、高齢のマルヒのセックスは、ややアブノーマルで、女性もこの方法に十分満足していた。
犬鳴は、今回予想される山形夫婦の離婚と、それに伴う条件が一般的に考えて規模の大きいものであり、マルヒの口約束を翻意させないためにも決定的な証拠と、有無を言わせないような迫力のあるものにしたいと考えていた。二人の会話を録音し、さらに反訳して文章にするほか、ホテルの部屋で行われる行為まで収録しようと思っていたし、すでにその手はずは整っていた。
次の日も、女性は、学会が終わるやわき目も振らずホテルに戻ってマルヒを待つ。僅かな時間差でマルヒが部屋を訪れ行為に没頭する。若い調査員は(すけべえじじい)などと罵っているが、犬鳴には二人のそうしたい気持ちは腑に落ちた。1000キロ以上離れた遠距離恋愛だ。二人が狂おしい気持ちで今日の逢瀬を待ちわびたことは容易に理解できた。この先、マルヒは、僅かな資金と経営するクリニック。残り少ない人生と失ってはいけない名声と名誉。これら総てを、40歳近く年齢差のある彼女に賭けるのである。女性のほうも、自信が経営するクリニックをたたみ、別れた夫との間にもうけた一人娘を、まだ健在の実母に預け、あと何年続くのか知れないマルヒとの生活に飛び込むのである。常識的な人は、(数年後、確実に迎える淋しい暮らしが、どうして分らないのか)と思うだろうが、人の感情なんて所詮そんなものだろう。大半の男女は、自身の人生の於いて、たまたまそういう局面に出会わなかったか、故意に(節度を持って)回避してきたか。(飛んで火に入る夏の虫)的な犬鳴は、こんな二人を祝福したい気持ちになった。
依頼人は、犬鳴探偵事務所で作成し、添付した膨大な疎明資料を使うことなく、当初の約束どおり離婚が成立した。その後、田園調布の屋敷を売却し、富士の裾野に近い御殿場あたりに自宅を新築し、「残りの人生をのんびり暮らしています」というハガキが届いた。二人とももう生きていないだろう。あのマルヒと歯科医の彼女は幸せだったかな。-------