犬鳴探偵事務所 14

探偵日記 3月16日土曜日晴れ

所用を終えてお昼前に事務所に着く。月曜日に訪問するご依頼人の報告書を作成。ただ、ご依頼人が期待したような結果は出ず、やや気が重くなる。調査をしていると稀にこういうことがある。依頼するほうは、(絶対こういうことをしているはずだ)と考えて頼んでくる。しかし、失敗なく調査を終了しても、対象者が、当初依頼人が期待しているような行動に出ない場合がある。しかし、これは致し方のないことで、調査事務所が責められるものではない。ただ、心優しい僕は、費用対効果の観点から(無駄をさせて申し訳なかった)なあと思うのである。

犬鳴探偵事務所 14

弁護士同様、探偵にも守秘義務はある。しかし、両者とも普通の人間であれば、ちょっと面白い案件の場合、誰かに話したくなるのが人情であろう。実際、この日も、同業者に対し口が滑ってしまった。ただ、何時であろうと固有名詞や詳しい場面は装飾する。聞いた相手が、(ああ、あの人のことか)と気取られることは決してない。例えば、奥さんから依頼されて夫の素行調査をした結果、何と相手は男性だった。時など、稀に遭遇する案件なので形を変えて話すことはある。間違っても、(いやあ、富士銀行の頭取がさ~)なんてことは言わない。

依頼人の柳原夫人が、「ね~犬鳴さん、2億出すから工藤をやってよ」と言い、調査部長を伴って歌舞伎町に繰り出した夜の翌日、11時頃、事務所に出た犬鳴のもとに一本の電話が入った。事務の高子が「所長~OOさんからお電話です」と言う。昨夜、エスカイヤクラブで偶然会った同業者だ。(何だろう)と思って出ると、「ワンちゃん、昨日は珍しいところで会ったね~」と言いながら、ところで、今度の理事会だけど。などと世間話をした後、ちょっと声を潜めて「ワンちゃん昨日の話しだけど俺にやらせてくれないかな~」と言う。犬鳴は瞬間、彼の言ってることの意味が理解できなかったが、そう言った後の彼の沈黙で思い出した。彼は、柳原夫人の、(特別な依頼)のことを言っているのだ。犬鳴は少しだけ驚いた。と言うのも、理事会やその後のパーティーで会う彼は、自分の事務所が如何に潤っているか露骨に自慢していた。この頃、協会の資金集めで理事たちは一律定額の寄付を強制させられていたが、彼が「全部俺が出す」などと言って、他の理事たちから(それでは趣旨が違う)と反論され、大いに顰蹙を買った。また、彼は、鰐皮の財布を取り出し、帯の付いた100万円を見せびらかす癖もあり、犬鳴や他の仲間は、(大層景気の良い男だな)と、羨望していたからである。(隣の芝生が良く見える)の例えどおり、外から見える姿と実態が大きく違っていたのかもしれない。

(ああ、あれ、イヤ僕も正式に引き受けたわけじゃあないし、その奥さんだってかっとして口走っただけでしょう)と応えたが、ちょっと先輩に対し失礼すぎるかな。と思い直し、(先輩、なんか良い方法あるんですか?)と聞いてみた。暗に、場合によってはお願いするかもしれません。と、余韻を持たせたのだ。彼は、「まあ、無い事もないが」と口を濁し、その後、当たり障りのない話に終始して終わった。彼は彼で、犬鳴に電話したことを後悔したのかもしれず、犬鳴も、(まいったな)と思ったが、その後も付き合いに支障するようなことはなかった。

勿論犬鳴はそんな危険なことをするつもりもなく、第三者を巻き込むことも考えていなかった。ただ、犬鳴なりの方策は出来ており、今度マルヒの夫と会った時提案するつもりでいた。夫人もこれで納得してもらうしかない。とも思っていた。

それから数日後、犬鳴は青森県に居た。特急で盛岡まで行き、レンタカーで十和田市に入った。目指すは工藤沙織の実家である。マルヒの不倫相手「工藤沙織」の身元調査はとうに終えていた。父親の工藤健二(51歳)は地元の役場に勤務する真面目な男で、本来の家業は農業で、工藤家は同所で代々農業を営む土着の家柄だ。したがって、健二も勤めの傍ら、休日や普通の日の早朝等に畑仕事も行っていた。家には、健二の実母と妻、やはり市役所に勤務する長男とその妻子、もう一人女の子が居るが、沙織と同じ看護婦をしており、現在は青森市内の病院に勤務し、寮生活と言う。工藤夫婦には一男二女があり、長男は沙織の兄、青森で働く女の子は、沙織の妹ということらしい。

犬鳴は工藤家に電話もせず突然訪問する形を取った。前もって知らせることで、沙織と連絡をされたり、妙に構えられることも避けた。いきなり行って、とにかく平身低頭真心を持って謝罪しよう。と思っていた。事前の協議で、夫人は不承不承ながら犬鳴の方針を呑んだ。いっぽう、マルヒはギョッとした顔をしたが、とりあえず堕胎してから考えればいいじゃあないか。と言う犬鳴の意見に従った。沙織に対する慰謝料は上限を1000万円と決めた。ただ、話の成り行きで金額の増減は犬鳴に任せてもらうことになった。必ず在宅している時間帯を想定して、午後6時、犬鳴の運転するレンタカーは工藤家の広い庭に停車した。------------