犬鳴探偵事務所 35

探偵日記 4月16日火曜日晴れ

昨日は午後9時就寝。小刻みに起きたがトータル8間以上睡眠をとった。朝5時半すっきりと目覚め、さあタイちゃんの散歩に行こうと思って部屋を出ると、何時も待っているドアのところに居ない。あれ~と思いタイちゃんの居室(妻が居候している部屋)を覗くが誰も居ない。すると、階下から「散歩はもうすみました。4時ぐらいから騒ぐので」との由。な~んだ。と思いまた部屋に戻って二度寝した。朝ごはんを食べて、10時前に家を出て事務所へ。

犬鳴探偵事務所 35

前にも書いたが、故郷に向かう長距離ドライブの最中、ちょうど金沢の羽咋近くの海岸を走っている時、犬鳴探偵事務所のメインバンクM銀行の当座係から電話が入り、入金待ち(依頼人の会社から受け取った手形を期日まで銀行に預けること。資金繰りの関係で早く資金化したい場合は、その手形を担保にして、貸し付けてもらうこともある)の手形が不渡りになったという知らせを受けていた。犬鳴自身は、この電話がバブル崩壊のプロローグとなった。あれだけ隆盛を誇った犬鳴探偵事務所も閑古鳥が鳴くような状況に陥り、事務所の電話もパッタリ鳴らなくなった。翌平成4年、一時期、4~5000万円あった売り上げが数百万円となり、毎月1000万円以上の赤字が続いた。バブルの頃は、御用達みたいになって毎日のように顔を出し、手を出せば、(よっしゃよっしゃ)と、田中角栄さんのように損失補填をしてくれていた地上げの会社も当然ながら資金ショートし、あっけなく倒産してしまった。

井口夫人は「ワンちゃん大変な時は遠慮しないで言ってよ」と言ってくれていたが、田舎者で、良く言えば昔気質の犬鳴は、井口夫人にだけは一切泣き言を言わなかった。実は、犬鳴探偵事務所では、景気の良い時(ハッピー預金)と称して、隠し預金をしていた。ほうっておくと犬鳴が全部歌舞伎町のオシッコにしてしまうお金である。犬鳴に内緒で経理担当者(犬鳴の実姉)がこっそり隠していたらしい。まあ、探偵事務所の経理なんてい加減で、もう時効だから言うが、税務署も正確には把握できない。或る時、所轄の税務署から担当者が来て、犬鳴さん、経費はいいですから入りの部分を教えてくれませんかと言う。一般に、探偵事務所に調査を依頼して、領収書をくれという依頼人は滅多に居なかった。犬鳴が(いやいや、領収書をお持ちになってください)と言っても、「いえ結構です」と言う人が多かった。税務署もなかなかで、目の付け所が違うなあ。と感心したが、犬鳴は言ってやった(構いませんけど、お宅の署長さんの名前が出てもいいんですか)担当者は渋い顔で帰っていった。

当時は、本当に杜撰な経営をしていた犬鳴探偵事務所は、そんなわけで、バブル崩壊の危機をどうにか乗り越えたが、そんな時、ビルを管理する不動産会社から家賃の値上げを求められた。この頃は、何処のビルも空室が目立ち、移転の条件に、引越し費用を負担し、入居から6ヶ月は無料。などのファックスが連日送られてきたし、家賃の値下げは当たり前だった。馬鹿な不動産会社も居たもので、それまで90万円だった家賃を100万円以上にしてくれと言う。その不動産会社は、本来の持ち主からサブリースしていた。予定通りの家賃収入があれば収入になるし、空室が増えれば持ち出しになる。真の家主は毎月決められた金額を得られるので好不況は関係ない。或る日、犬鳴は何かと可愛がってくれている会社社長と面談の際、その事を話題にして、(経済環境が読めないんでしょうかね~)などと、その不動産会社を批判したところ、「ワンちゃん俺のビルに越して来いよ。ちょうど35坪が空いてるよ」と言ってくれた。(有難うございます。だけど社長僕は敷金を入れるお金が無いんです)今のビルには2400万円の敷金が入れてある。いざ退室となれば、契約通りなら1700万円は返金されるはずだ。ただ、その敷金は、正確には井口夫人のものである。犬鳴は、そんなことも正直に話し、ちょっと困った顔をしてみせる。何しろ犬鳴は元子役である。演技力には自信があった。すると社長は、「馬鹿なことを言うな。何も心配しないで引っ越して来い。家賃も自分で決めろ」と言う。

平成4年5月、犬鳴探偵事務所は、バブル時期の夢のような6年間を過ごしたビルを出て、新宿駅からは少し遠くなったが、まだ新築間もないビルの6階に転居した。35坪で、家賃は管理費込みの30万円。敷金は200万円。但し、10回の分割で支払う条件で、社長の息子や幹部社員たちは白い目で見たが、絶対的な権力者の社長に諫言する者も無かった。しかし、社長のこの時の英断は間違っていなかった。それから今日までの我が国の経済は疲弊の一途を辿り、なんと、あの時、家賃の値上げを告げられ、出て行った犬鳴探偵事務所の一室は、以後、9年間空室のままで、27万円に家賃を下げてやっと入居者が現われた。例え、30万円でも遅延無く入る家賃は貴重で、社長の会社から依頼される困難な案件を、今度は社長の提示する報酬で引き受けた。今でも時々、「おい、ワンちゃん今夜うなぎを食いに行こう」などと誘ってくれる。社長の御年85歳。頗るお元気である。---------