犬鳴探偵事務所 25

探偵日記 4月1日月曜日晴れ

今日から新年度。企業では新入社員が胸を膨らませて、入社式に臨んだ事と思う。初めて経験する社会で生きがいを見つけて欲しいものだ。ひるがえって、定年後の男性のことを思うと何だかうら寂しい気持ちになる。或る、元、お巡りさんの述懐。警察官を退職し、年金生活に入ると、警察庁全体では5年ちょっと、警視庁に限って言えば3,5年が受給期間であるという。ということは、退職すると間もなく亡くなることになる。その人は、すでに、22年貰っているから掛けた年金以上を受給している。と言って笑っていたが他人事ではない。まあ僕の場合、年金なるものびた一銭払っていないので、とやかく言えない上に元々資格も無いが、とにかく、日本のお父さん達は余暇の過ごし方が下手である。若い頃から、たまの休日も家でゴロゴロするばかりで、時間の使い方が分らない人が多い。近年、郷里の同級生と会うと、年金、病気、孫、の話題に終始する。JRを定年退職したO君など、「最初は嬉しくなって、あれもしようこれも。と考えていたが、そのうちやることが無くなり、女房もパートに出ていない家でボーっとすることが多くなって、欝になりかけた」と言っていた。僕なども、仕事以外で1週間過ごせと言われたら病気になるかもしれない。だから、去年のお盆休暇みたいに、6日間連続でゴルフをやる羽目になる。

昨日は、仲良くして頂いている弁護士らとのゴルフで、埼玉県の「入間カントリークラブ」に行った。前の日の天気予報で雨を覚悟したが、全く降られなかった。ただ、気温は低く寒い一日だった。東京に帰って、食事でもしようということになり荻窪の割烹に行く。弁護士稼業も大変な重労働らしく比較的早死にする人が多いという。特に、妻に先立たれるとあっという間に亡くなるとも言っていた。その中のA先生は、10年前心筋梗塞を患いこの日は久しぶりのプレーらしく、少々スイングが怪しげであったが、そこはそれ、昔取った何とやらで後半は随所に、シングルだった当時の片鱗をうかがわせた。月にいっぺん程度コースに出れば、僕などあっという間に追い越されるだろう。

平均年齢68歳が年金や病気の話に花を咲かせたあと、皆と別れた僕は「天国に一番近いスナック」(ほろよい)に寄って、平均年齢75歳の輪に入って、少し若返って帰宅した。

犬鳴探偵事務所 25

充分な経費を貰い井口夫人の不倫相手の娘に対する調査は綿密に実施された。まったく身に覚えの無いことで、こんなに執拗に調べられたほうはたまったものではない。普通はそう思うだろうが、実は、それなりの原因は有った。最初に手を挙げたのは娘のほうで、井口夫人は対抗上調査に踏み切ったのであった。自分の母が悲惨な死を遂げた後、その理由が父の浮気だと知った娘は、自分なりに色々調べて、その相手が同業者の妻であるらしいことを突き止め抗議した。といっても、例えば、損害賠償を求めたり、また、夫や世間に知らせるとか、脅したわけでも、嫌がらせをしたわけでもない。ただ、(貴女は酷いことをした。私は一生怨みます)という内容の手紙を送ってきただけである。娘は、探偵を雇って調べたりせず、亡くなった母親の日記やメモから推量したに過ぎず(動かぬ証拠)は持っていなかった。ただ、若い女性の(母を死に追いやった憎い人)という感情の所産であった。

勿論、まず最初に矛先は父親に向けられた。父親が総てを告白して謝罪したとは思えないので、次に、倍増した怒りの矛先が井口夫人に向けられたのだろう。不倫相手の娘に抗議を受け、二人の関係を知られた。と思ったが、夫人はともかく、男性のほうが夫人との関係を清算しようとしなかった。彼もまた、井口氏同様世間知らずの真面目人間であった。大事な妻を失うほどの危険極まりない行為をやめるどころか、切羽詰った状況が以前にも増して二人を燃え上がらせたのだ。その一つが、日中、野菜畑での束の間の逢瀬であった。

犬鳴探偵事務所の調査は思わぬ方向で予期しない展開を見せた。まだ三十ちょっとの娘は、父親の動向を探ることに情熱を注ぎ夫の変化を見落とした。或る時、調査員の一人が言ったひと言で、犬鳴はターゲットを娘の夫に変更した。すでに2ヶ月以上娘の動向を調査したが、これといった成果が上がらないまま犬鳴も調査員達も少々倦んでいた。そんな時、「所長、銀行マンてえのは随分忙しいんですね。毎日午前様だし、この間は、部下なのかなあ若い女性が車で家の近くまで送ってきたんです。」と言いながら、ちょうど一緒に居た同僚に同意を求めるように「おい、あいつらちょっと変じゃあなかったか?家からちょっと離れた所に車を停めてさあ、暗くてよくわかんなかったけど抱き合ってたようのも見えたよなあ。」調査員の言葉を聞き、犬鳴は(お前達、その車を尾行してみたのか?)と、問うてみた。「いいえ、追っかけてません。でもナンバーは控えてあります。」と言う。

(よし分った。今日から亭主がマルヒだ。それから井上はすぐ陸運局に行って来い)犬鳴が言うと二人は飛び出した。-------