犬鳴探偵事務所 22

探偵日記 3月28日木曜日晴れ

昨日とうって変わって暖かい朝、ただ、昨日の酒がまだ残っている感じで、パッと起きれない。血圧を測る。上が141、下が87、下が若干高いが血圧の上昇する寝起きだからこんなものか。5時5分、ようやく起きてタイちゃんの散歩に行く。嬉しくて早く行きたいのに、靴下を履く僕の手を甘噛みむして邪魔をする。本当に変わった犬種だ。こいつと僕とどっちが長生きするだろうか?きっとタイちゃんのほうかな。今日は11時にご依頼人が来所(報告のため)する予定なので、ぐず寝をせずに事務所へ。

犬鳴探偵事務所 22

久しぶりに井口夫人とゆっくりお茶する時間が出来た。三日にあげず犬鳴探偵事務所を訪問し、相変わらず浮気夫の動向を調査依頼する夫人は、もう事務所の一員のようになり、調査員達も気安く声をかけ合っていた。夫人も来るたびにお菓子持参で、事務の高子や経理の女性と歓談するのを楽しみにしているらしい。犬鳴も気にはなっていたが、協会の仕事と趣味の麻雀に時間を取られ、ほったらかしにしていた。この日、新規の依頼があって面談が済んだ時、タイミング良く井口婦人が現れた。ちょうどランチどきだったので、(腹へった、ご馳走して)と甘えると、夫人は「へ~ワンちゃんから誘ってくれるなんて珍しいわね」と言いながら、まんざらでもない様子で外に出た。犬鳴は、銀座アスターの酢豚がお気に入りである。夫人の意向も聞かず伊勢丹の7階へ向かう。

犬鳴はAランチを頼み、夫人は焼きそばを注文する。食事の最中、夫人が「ねえワンちゃん、あのDrどうしたの?」と聞いてくる。守秘義務は十分承知しているが、事務所と夫人の関係は核心に触れない範囲なら話してもいいだろう。(うん、堕ろしたよ)犬鳴は短く応えた。夫人のもっとも気がかりな部分であることは犬鳴には分っていた。井口夫婦には子供が居ない。今回の事件でも「まったく欲しいところには出来なくて、」などと、嘆いていたものだ。それからひとしきり、Dr柳原の調査に関連した話題で、お互いの考えを言い合った後、夫人が「亭主のことは続けてもらうけど、ちょっと他の人の事を調べて欲しいの」と言ってきた。犬鳴は、(ううん?何処の誰を)と、空っとぼけて聞いたが、夫人が調べたい相手の予想はついていた。

昭和60年ごろだったか、杉並区の住宅で、その家の主婦が首吊り自殺をした事件があった。自殺した女性の夫は、造園業を営み、ご他聞に漏れず大層な羽振りだったようだ。したがって、近所では、(ご主人の女性関係で奥さん随分悩んでいた)といった噂が流布されていた。

或る時、井口夫人に「ワンちゃん集金に来てよ」と言われて、井口邸まで行ったことがある。井口邸は広大な敷地の中にあり、道路から母屋は見えない。夫に見咎められるのも嫌だな。と思った犬鳴は、少し離れた場所に車を停めて夫人を待っていた。すると、ドアに社名を書いた軽自動車が犬鳴の車を追い越して停車した。その車から60代ぐらいのがっしりした体格の男性が降り、中に入ったら隠れるほど実った畑道を入ってゆく。いずれも井口家の敷地である。犬鳴は、ドアに書かれた造園会社の名前を見て、(同業者かな)と思い、それにしても何でコソコソ訪ねて行くんだろうと怪訝に思って、次に、悲しい職業病が出た。車を下りた犬鳴は、近くの電信柱の陰に立ちその男を目で追尾した。

井口夫人が畑を回って犬鳴きの車に近づき「御免ね待たせちゃって」と言いながら、分厚い銀行の封筒を渡してくれたので、その日はそのまま事務所に帰った。------