探偵日記 5月10日金曜日晴れ
昨日荻窪で行われた勉強会のあと、関係者と食事をして、そのあと、久しぶりに「天国に一番近いスナック」(阿佐ヶ谷のほろよい)に行った。調子に乗り少々飲みすぎたので、タイちゃんの散歩はずる休みする。気のせいかタイの僕を見る目が冷たく、非難的に感じた。明日はちゃんとやろう。
17時に本郷の弁護士事務所で報告があるので休むわけにもいかず、午後、仕度をして事務所へ。調査員は誰もおらず事務の高ちゃんとおばさんだけ。あ、忘れてた。社会保険労務士の径先生もいた。1組は今日から3日間、静岡県で張込尾行の仕事。都内でも人妻をマルヒとする素行調査をやっている。所詮この世は男と女、これに金銭が絡み事件へと発展する。誰が言ったか(探偵は人の不幸に立ち会う職業)とか、本当にそうかもしれない。
犬鳴探偵事務所 47
マルヒは、東京銀座に診療所を持っているが、一方的に、妻に対し別居を宣言してから六本木のマンションで一人暮らしをしていた。休診日は木曜日と日曜日、しかし、時には若い医師に診察を任せ外出する。事務所では、六本木のマンションを出てから帰宅するまでマルヒの行動を監視した。診察は19時に終わる。そのあと、助手や事務の女性と食事に行くことはあっても、食事が終わればあっさり別れ、バーやスナックに行くことはない。真っ直ぐマンションに帰って、以後、外出することも無かった。一人のときなど、コンビニで弁当を買って帰る事もあった。稀に、午前の診察を終えて外出するが、籍を置いている大学での講義だったり、セミナーでの講演だったりした。依頼人の言う「絶対女がいるはずです」という根拠が疑わしい状況である。調査はすでに3週間を超えた。
犬鳴が、中間報告をしたいというと、依頼人も待ってた様子で、すぐに会おうということになった。場所は新宿のヒルトンホテルのラウンジ。午後三時、犬鳴は分厚い報告書を持って依頼人を待った。日々のことは、犬鳴が電話でこまめに報告していたので、依頼人は受け取った報告書を見ようとせず、相変らず「主人は必ず浮気しているはずです」と言い張る。井口夫人のように、結果が出たにもかかわらず調査を継続するのも怠惰に感じるが、浮気の気配がまったく感じられないのに、更に調査の継続を求められるのも気の重い話であった。来る日も来る日も同じパターンで終わる調査は、疲労感を覚えるだけで達成感が伴わない。この頃は、現場に出かける調査員達も意気込みが感じられなかった。
依頼人と会ってからすでに2時間経った。話は堂々巡りで、依頼人は、いかに夫が怪しいか、具体的な例を挙げて力説する。(じゃあ、どの時間帯でどんな形で女性と会っているのでしょうか?我々が見ていない深夜や早朝、或いは、診療所の中とか)犬鳴が言うと、依頼人は少し考えるような素振りを見せたあと、「そんなんじゃあないと思う。主人は高齢だし慎重な性格ですから、慌しい会い方はしないと思います。じっくりと計画的にやっているはずです」と言う。紹介者の井口夫人からは「ワンちゃんなるべく安くしてあげてね」とも言われているし、犬鳴は、(困ったな)と思い、新しい提案をした。(奥さん、僕は常々人の生活パターンは、1ウイークの繰り返しだと考えています。例えば、芸能人とか商社マンなどはその限りではないでしょうが、ご主人の場合、すでに1ヶ月近く見ています。それでも全くその気配がありません。したがって、事務所の判断としては、シロなのですが、配偶者の勘も尊重します。そこで提案なのですが、今後の調査は僕の判断でやらせていただきたいのです。その場合、日々の調査料は結構です。その代わり、もし、不倫の事実があり、その動かぬ証拠を得られたら、成功報酬を頂戴したいのですが如何でしょうか)「犬鳴さん、その成功報酬っていくらなの」(それをここで決めておきましょう。)
依頼人は、犬鳴と何度目かに会った時、「主人は、離婚さえ承知してくれたら今住んでいる家と、現金3億円くれるって言ってます。」と話していた。バブル崩壊後、不動産の価値も半減したが、田園調布の豪邸は、叩き売っても5億円は下らないだろう。依頼人も、「私ももうこんな年ですし、夫が、私のことがどうしても嫌なら離婚してもいいかなって思っているんです。」と言っていた。じゃあ、あれこれ言わずにすっきりと別れればいいのに。と思うが、この依頼人は、誰かに、いや何かに背中を押してもらいたいのだ。その何かが、(夫の不倫)なのだろう。私は別れたくなかった。私は何も悪くない。離婚の原因は総て夫のほうに有ったのだ。と、世間に思われたいのだろう。依頼人は依頼人なりに苦しんでいる。
成功報酬は3千万円ということに決まり3時間を越す面談が終了した。犬鳴は帰り際、依頼人に(奥さん、世間的に考えて、ご主人のお年ならもうすっかり枯れていると思いますが)と聞くと、依頼人は「いいえ、あの人はまだまだ枯れていません。」と、自信たっぷりに言った。--------