犬鳴探偵事務所 16

探偵日記 3月21日木曜日晴れ

寒の戻り。というのだろうか、さくらの咲く頃に必ずこういう日がある。今日から下着も薄手のものにしていたので、朝散歩の時思わずブルっとした。今日は、5時過ぎに起こされ25分に外に出た。昨日は阿佐ヶ谷のゴルフコンペがあり、早いスタートのため3時に起きて散歩に行ったタイちゃんは、25時間ぶりの外出となった次第。嬉しくて笑顔になったかどうか分らないが、確かに大喜びしていたようだった。朝ごはんのとき、テレビが介護犬のことを紹介していたが、責任者は、原発で置き去りにされた犬を救出し役立てようとしていた。中には、やせ細って助け出され、暫くは人に怯え、なかなかなつかないそうだ。犬好きの僕には見るに忍びないというか、耐えられない映像だった。-----

犬鳴探偵事務所 16

犬鳴の言う事を黙って聞いていた父親がやっと口を開いた。「もうすわけねえでし」犬鳴にはそう聞こえた。(いやいや、お父さん。申し訳ないのはこちらのほうです。本来ならば、当人のドクターが来なきゃあいけないんでしょうが、勤務の都合で私が代理で参りました。まあ、こんなことを例え父親でも工藤さんに言うことじゃあないのかもしれませんが、こちらも、こうするしか方法が浮かばなかったものですから)時間も有りませんし。最後にそう付け加え父親の返事を待った。東北の人はおしなべて無口な人が多いという。犬鳴はある程度承知していたし、罵声を浴びせられることも覚悟していた。しかし、返って来た言葉は、犬鳴のことを慮る優しい声音の短いものであった。「今日はお泊りでしょうね」父親の真意を測りかねたが、犬鳴も短く(ハイ)と返事した。

「分りました。これから母親と相談しますが、明日東京に参りましょう。」と言う。その後、自分たちは東京に行った事も無いので、先生と会うのにはどうしたら良いのか、これからの犬鳴さんはどんな予定か、等と質問する。要するに、(犬鳴の話は良く分かった。娘がとんでもないことをしでかし、東京の偉い医者に迷惑をかけている。自分が上京し、首に縄をつけてでも青森に連れて帰る)というのが、犬鳴の話を聞き、短時間で決めた父親の考えだった。勿論、慰謝料とか、そんなお金のことなど考えもつかない様子である。あまりにもあっけない進展に戸惑った犬鳴だったが、(よし、この父親の気持ちに任せてみよう)と考え、東京を出る際予約しておいた今夜の宿泊先を伝え、一旦ホテルに帰り出なおすことにした。

帰り際、(じゃあ、私はホテルでお待ちしていますので、奥様とご相談されてお返事下さい。先方には一応連絡しておきます。交通費や手術代等の費用は先方に負担させますし、沙織さんの当面の生活費や精神的なこともありますので)と、慰謝料のことをやんわりと申し出たが、父親は聞こえなかったかのように、黙って車を下りて母屋に向かった。会話の端はしに気真面目さが滲み出ている。おそらくこれから何をどうして良いか分からないものの、工藤家の一員が不始末をしでかした。そのことのみに動転しているのかも知れない。母屋に戻る父親の背中はうなだれて小さく見えた。

犬鳴がホテルにチェックインして1時間も経っただろうか、父親から電話が入り、朝一番で発ちたいという。犬鳴が迎えに行き、レンタカーで盛岡まで行き、特急に乗ることに決まった。沙織の母親も一緒に行くという。(じゃあ、細かいことは車の中ででも)と言って電話を終えた犬鳴は、受話器を持ち替えて依頼人にかけた。犬鳴の声を聞き「お疲れ様」と労う。この依頼人もちょっとの間に成長したのだろう。柳原家が崩壊し、自身の人生も大きく狂ってしまう。そんな、人生の岐路に遭遇し、持ち前の気の強さや、天真爛漫な可愛い性格が一変した日々の苦悩。犬鳴もこの年になって、ようやく分る。男(夫)にしてみれば軽い遊びだとしても、女性にとってこんなに苦るしむものは無い。焦燥とやりばのない不安。自分の快楽のためにかけがいの無い人をこれほどまでに苦しめるのだ。それでも、そんな不良夫の尻拭いを必死にする。そして、犬鳴はこれらの依頼人に頼りにされている。

(明日の午後上野に着きますが奥様はそのころどうしていらっしゃいますか)と聞くと、依頼人は、「犬鳴さんの予定に合わせるわ、青森はずいぶん怒っているでしょうね」と言う。(ええ、まあ)犬鳴は曖昧に言葉を濁したが、この人には会わせない方が良いだろう。と思っていた。ドクターとの連絡等手伝ってもらいたいが、沙織を交えた会談に加わらせることは忍びなかったし、依頼人には、いつまでも可愛い人で居てもらいたかった。(費用ですが)犬鳴は依頼人が気にしているだろうもう一つの要件を切り出した。気のせいか、受話器の向こうで依頼人が姿勢を正すような空気が伝わってきた。今回の問題ような場合、どんだけ吹っ掛けられても否は言えない。いや言えるだろうけどその時は破談となって、依頼人夫妻はもう一人相続人が増えるのである。(とりあえず、ご両親の交通費と宿泊費、まあ、沙織の部屋に泊まるっていうかもしれませんが、堕胎の費用と、佐織の当面の生活費をご用意下さい。沙織がノーと言えばこじれるでしょうが、父親は信用できるように思います。まあ、こちらの希望に沿って尽力してくれるはずです)と伝え、詳しいことはお目にかかってから。として、(おやすみなさい)と言って電話を切った。腕時計を見ると11時を回っていた。----------