探偵日記 3月15日金曜日晴れ
グアムから帰った翌日埼玉にゴルフに行った。晴天で20℃近い気温、風もなく絶好のゴルフ日和である。ところが、午後になると強風が吹き始めすぐそこの山が霞んで見えるほどスギ花粉と風塵。40年来の花粉症である僕は、止まらなくなったくしゃみと、滴り出る鼻水に加え目も痛くなりゴルフどころではなくなった。しかし、不思議なもので、スコアは午前より良くなった。(笑)実は今度の日曜日、スギ花粉のメッカ栃木県でコンペがある。もう、何時も飲んでいるストナリンでは防げないと思い、緊急手段で渋谷区のA病院に駆け込み注射をしてもらってから事務所へ。
犬鳴探偵事務所 13
その日の正午ごろ、ドクターの妻である依頼人がやって来た。最近の夫人は大人しい。特に今日は何か思いつめたような顔をしている。犬鳴の部屋に入りソファに座ってもうつろな表情で、ぼんやりと犬鳴を見つめるばかりである。(何だか元気ないじゃあない)犬鳴にしてみれば大切な依頼人ではあるけど、時に、妹か娘とも思うこともある。勿論、依頼人にしてみれば、大金を支払って雇った探偵を、そんな対称にして見る事はないだろうが、もう何度も顔を合わせている犬鳴は、気を許した相手を労うように云って見た。
依頼人の柳原夫人は、薄く笑った後、声を潜めて「ねえ、犬鳴さん。2億出すからやってくれない」と言う。犬鳴は夫人の言った言葉の意味を十分承知の上、敢えて返事をせず夫人を見返した。これまでも何度かそんなことを云われた事はある。しかし、大半は冗談半分で笑いあって終わった。後年、4~5回同様の相談を持ちかけられた犬鳴だが、当然ながら総て断ってきた。中には、担当者が(着手金)だと言って5千万円受け取ったこともあったが、苦心して返した事例もある。ただ、犬鳴はこう考える。勿論そんな依頼は引き受けないが、にべもなく断るのも能がないし、頼りにして、すがりつく依頼人の、(人生の指標)を閉ざすことになりはしないか。残念ながら犬鳴はこれまでの人生の中で経験は無いが、この種の悩みに特効薬は無い。さらに深みに嵌れば、暗く長いトンネルをたった一人手探りで歩き続け、遂に出口を見つけられないまま自殺するかもしれない危険がある。探偵とは、人の不幸に立ち会う職業であれば、トンネルの出口を探し、生きる希望を共に探してあげることだって必要なのではないか、と。
「私は、あの女が主人の子を生んで、私たちの子供と同じレベルで生きてゆくのが許せないんです。お金は前もって用意します」夫人なりに考え抜いた結論なのだろう。翻意させることは困難に思えた。都内で総合病院を経営している実家は相当な資産家でもある。まさか、殺人のために用立てたりはしないだろうが、可愛い一人娘に無心されればさしたる苦労ではないだろう。犬鳴は聞いてみた。(ご主人はどう云ってるの)マルヒの実家も依頼人のそれと同じぐらいの力があるらしい。マルヒは気弱な性格で、妻と愛人に挟まれ身動きできなくなっているに違いない。妻には妻の喜ぶことを云い、愛人の工藤にも、彼女を失望させない言葉で繕っている筈だ。
「あのバカ亭主は駄目です。自分では何も解決できずただうろうろしてるばっかりです。昨日(離婚しましょう)って云ったら、嫌だって泣くんです」
依頼人も口では乱暴なことを言っているが、両親を含む周囲の人たちから十分な愛情をそそがれて育った普通の女性である。まず離婚は避けたいだろうし、夫に対する未練も読み取れた。2億円という金額はその証であろう。(分りました。奥さんの希望に100パーセント応えられないけど、ちょっと考えさせて下さい。)犬鳴はそう云って、続けて、(一度ご主人とも話がしたいんだけど、今度の非番は何時ですか)と聞いて、数日後、柳原隼人が事務所に来るという約束をして夫人は帰った。
そうした日の夕方、くだんの調査部長を誘ってエスカイヤクラブに入ったところで、同業者に声をかけられたのである。池袋で開業しているこの同業者は、先日犬鳴を協会の理事に推した人であった。業歴や年齢も犬鳴より優っていたし、日頃から、年長者に対する礼節をわきまえている犬鳴は丁寧に挨拶し、(あ、先輩、うちの調査部長です)と言って、池辺を紹介し、成り行きで同席することになった。彼と一緒に居る女性は秘書だと紹介された。犬鳴は(多分愛人だろう)と思ったが、そんなことはおくびにも出さず当たり障りの無い会話に終始した。ただ、同業者なのでいきおい調査の案件に関した話題になり、犬鳴がうっかり(いやあまいリました2億円出すから一人消してくれって依頼されました。勿論断りましたけどね)と言ったとき、なぜか二人が目を合わせ予想以上の関心を示した。----------