犬鳴探偵事務所 26

探偵日記 4月2日火曜日雨

5時に目覚めた。微かに雨の音らしきが聞こえる。外に出ると案の定やや強い雨が降っていた。中央線の高架下まで傘を差しながらタイちゃんを抱っこして駆け込む。タイちゃんも飼い主の僕に似て雨が嫌いみたいだ。ご飯を食べた後、今日は事務所に行くのをやめようかな。と思ったりしたが、思い直して出かけることにした。

犬鳴探偵事務所 26

マルヒの夫の調査はあっけなく終わった。想像したとおり同僚の女性と不倫していた。勤務先から女性のアパートに直行し、おそらく彼女の手料理で夕飯を済ませるのだろう。調査をした間は二人揃っての外出は無かった。女性のアパートはJR新大久保駅から高田馬場方向に少し入ったところ。犬鳴は、何となく、松本清張の小説を思い出した。小心で真面目なサラリーマンがやはり同僚の女性と不倫関係に陥り、その事実を隠し通すために、強盗殺人の疑いをかけられた近隣の人のアリバイ(私は、犯行の有ったとされるその時間に、近所に住むKさんのご主人と会いました)を証言しない。という内容だったと記憶する。確か、主人公のそのサラリーマン役を、今はもう居ない小林桂樹さんが演じていた。マルヒの夫と映画の主人公をダブらせたのだが、もし、マルヒの夫が同じ立場になったらどうするだろうか。

数日後、井口夫人に報告する。口頭で報告する犬鳴の説明を聞きながら、(まったく、男ってしょうがないわねえ)と、わざとらしく嘆息する。確かに当時はまだ圧倒的に男性のマルヒが多かった。しかし、相手が居なければしたくても出来ないのが不倫に限らない男女の仲である。だからといって、相手の女性が一方的に悪いというわけではないが、中には、既婚者にしか興味を持てない女性だって居る。そういう女性にとって、(愛人)という立場は、プラスアルファの刺激があるのだろう。マルヒの夫の相手は、決して美人ではないが、知的で大人しそうな人だった。大地主の娘である妻と比べて、また違った魅力があるのだろう。

以後、井口夫人からの仕事は夫の素行調査に戻り、三日にあげず「ワンちゃん今日もやってね」と、リクエストがくる。調査員達も馴れたもので、当時、井口係になっていたペアの専従員が「了解」といって出て行く。マルヒは極めて好人物といえるが、探偵にとってこんなに手のかからない対象者は珍しかった。すでに二年近く尾行しているにもかかわらず一切気づかない。たまに後ろを振り返ったりするそうだが、尾行に注意してのことではなく、マルヒの気まぐれみたいな行動であろう。犬鳴の事務所では、新人が入ると井口班に加わらせ(尾行調査)の実習をさせていたぐらいである。余談だが、中には物凄く勘のいいマルヒもいて、稀にだが調査不能に陥ることもあった。その昔、(S調)と呼ぶ調査があった。正式には(思想調査)で、勤務先から共産党員ではないか。と疑われた社員の調査を良く行った。会社を出たマルヒの尾行を開始すると、彼らは決して後ろを振り返ったりしない。その代わり、一旦乗った電車から発車間際に降りたり、逆に、乗る気配を見せずに、発車寸前に飛び乗ったりする行為を数回繰り返す。まことに、探偵泣かせではあるが、(語るに落ちる)とはこのことで、自ら(私はそうです)と言っているようなものである。勿論探偵のほうも手を変え品を変えて、動かぬ証拠を蒐集する。

平成に入り、犬鳴探偵事務所の業積は飛躍的に伸び、業容も整ってきた。何を勘違いしたか、周辺の金融機関から「お金を借りてくれませんか」といってくる。ただ、妙に律儀で几帳面な犬鳴は、(借りたら必ず返さなければならない)と思うものだから、ましてや、必要も無い借金をする気も無く、逆に、せっせと貯蓄した(嘘)せっせと歌舞伎町通いをして、余分なお金は全部使い果たした。事務所では、それまで毎年春と秋に一泊か二泊で温泉旅行をしていたが、調査員達の見聞を広める効果を考え、平成元年より社員旅行を海外に決め、初回は女性陣の意見に従い、(香港)に行くことにした。-------