犬鳴探偵事務所 19

探偵日記 3月25日月曜日雨

珍しくタイちゃんが大人しく僕の部屋の前で待っていた。鳴きもせずドアをガリガリもしないで。外に出ると小雨。何時ものように中央線の高架下に駆け込む。それでも50分、他の犬にも遭わず無事帰宅した。今日は僕の大嫌いな給料日、何故って?それは、みんなは貰えるのに僕だけ貰えないから。(笑)
昨日我が家に新車が来た。今までは黒だったが今度は純白。仕様が大きく違っているので戸惑う。第一に、キーが要らない。キーはポケットに入れておくだけで良い。どっかのボタンを押すとエンジンがかかり、ブレーキに置いた足を上げると走り出す。信号で停車し、ブレーキを踏むとエンジンが停止する。セールスマンはECOだと自慢する。また驚いたことに、CDは不要という。例えば、1枚のCDを一度2曲ぐらいまで聴くと機械が記憶してくれるので1000曲以上入るらしい。機械オンチの僕は、(そんなにまでして欲しくない)と思う。シンプルにただ安全に走ればいいのだ。

犬鳴探偵事務所 19

午後、件のホテルで工藤沙織と面談した。何度か実物も見ているし、写真は山のように見せられた。しかし、彼女を取り巻く状況が多きく変わった今、改めてみる沙織は、適齢期を迎えた女性の充実した魅力に加え、身ごもっている自信みたいなものが重なり、しっとりとした潤いのようなものを感じさせた。最初に依頼人が言った(牛がソバージュをした)様な女性とは程遠く、Drが愛したのも頷けた。犬鳴が手を上げて合図し、それに気づいた沙織が席にやって来た。(初めまして犬鳴です。今回は貴女にずいぶん酷いことをしたね)と言うと、沙織は犬鳴を少し睨むような表情をした後、邪気の無い笑い顔になり、「本当に、犬鳴さん、人の恋路を邪魔すると南部の馬に蹴られますよ」と言った。そういえば沙織は昭和29年生まれの午年だ。犬鳴は、ずいぶん洒落たジョークを言うなあと感心した。きっと頭も悪くないのだろう。Drはそんなところにも惚れたのかもしれない。

沙織はそれ以上の愚痴は言わなかった。ただ、「突然親に出てこられてびっくりしたし、恥ずかしい思いもしたけど、私なりに悩んでいたんです。産んだってあの人がキチンと責任を取ってくれるとは思えなかったし、私は仕事が好きだからまだまだ働きたいと思っているし、そんなこんなでぐずぐずしているうちにどんどん育ってくるし、本当は、犬鳴さんのようなおせっかいな人が現われてくれるのを待っていたのかもしれない。先生は優しいけど男らしくない。でも私はそんな男性が好みなのかもしれないって、最近良く考えるんです。父からお金のことも聞きました。私もそうだけど家だって裕福じゃ有りません。でもお金は要らない。何時だったかあの奥さんに言われたんです。(貧乏人の百姓女が玉の輿を狙って、子供が出来たって誰の子かわかりゃぁしない。あんた、医者の奥さんになるのは百年早いんだよって。)犬鳴は、あの依頼人なら言いそうなことだ。と思ったが、黙って聞いていた。「その時思ったんです。先生、私と一緒の時は、必ず離婚して君と暮らすから。と言うんですけど、今度、母から(人のものを取ったら必ず取り返される。あの先生、ちょっと良い男だから、きっとまた浮気するよ)って言われて、私も、そうだなって、思ったんです。」

沙織の話は理路整然として分りやすかったし、故意も衒いも無かった。初めてあった他人の犬鳴に真情を吐露してくれたのだと胸に沁みた。たんに田舎の人間というのではなく、沙織の本当の姿を見せられたような気がした。(いい娘だな)罵られたり、泣かれたりするのかな。と覚悟してきた犬鳴はホッとするよりちょっぴり感動した。と同時に、あの素朴な工藤夫妻を見直した。二人の子育ての成果であろう。良く、(子は親の背中を見て成長する)と言うが、まさにその通りだと思った。
ひとしきり、そんな会話をした後、沙織がくそ真面目な顔をして「ねえ、犬鳴さん。私、元の体に戻ったらまた東京に出てくるつもりだけど恋人になってくれない?」と言う。犬鳴は一瞬沙織の言葉の意味を理解しかね、え、何?と聞き返すと、沙織は少し笑って「だって、犬鳴さんのせいで彼氏が居無くなったんだから責任とってよ」と言った。犬鳴は、へ~そんな理屈も有るのか。と思ったが、(いいよ。君みたいな素敵な女性の相手を出来るんなら、良し分かった。今夜帰って女房に別れ話をしておこう。)と言った後、おどけて、べ~をして、周囲の人が振り返るぐらい笑い合って沙織と別れた。

秋になり、(見知らぬ人から便りが届いた。)じゃあなく、十和田市の工藤家から箱一杯の真っ赤なりんごが届いた。中に手紙が入っており、封を切ってみると沙織からだった。術後も順調で、すっかり元気になったこと、東京での再就職先も決まって、年内に上京すること、今度は自分が依頼人となって、結婚相手の調査を頼むかもしれない。等と書いてあった。

ぱっとしない犬鳴探偵事務所もそれなりに仕事が入り、経済的に心配のないことを良い事にして犬鳴は趣味の麻雀と、協会活動を熱心にやった。特に、調査業協会は次第に充実し、主務官庁の警察庁から、社団法人の許可を得て、昭和63年9月3日、ホテルオークラを会場にして、盛大に設立記念のパーティが催された。時は、バブル景気に沸き、探偵業界もようやく「正業」として、世に認知されたのであった。--------