3月05日火曜日晴れ
今日の東京は14~5℃まで上がるらしい。本当に暖かい日だ。10時半に新規の依頼人が来所の予定で早々に事務所に着いた。間もなく主たる依頼人とその父親が現れ、早速本題に入った。いわゆるよくある話で、46歳になる夫の素行調査である。依頼人は幾つだろうか、なかなか美人でスタイルも良かった。僕なら絶対浮気なんかしないだろう。と思ったが、世の中贅沢な奴もいる者で、もう1年以上家に帰ってこないという。調査の結果はやってみなければ分らないが、多分、僕を含めて、関係者全員が想像しているような展開になるだろう。依頼人も(離婚)の意思は固まっていないようだが、不信感は強いように見えた。夫が反省して戻ったとしても完全な修復はかなりの時間を要すだろう。
午後、残っている調査員とランチに行く。-------
犬鳴探偵事務所 8
年齢は30歳ぐらいか。スタイル抜群で、顔はアイドル系の可愛い美人である。ベンツを乗り回していることからもセレブな女性と思われる。大会社の社長令嬢か、収入の良い夫を持つ主婦か。その答えはすぐに出た。ソファに座って、犬鳴が名刺を出す間もなく「夫の尾行をお願いしたいんだけど」と、性急に用件を切り出した。犬鳴が(かしこまりました。ご主人はどんなご様子ですか)と聞くと、顔に似合わない蓮っ葉な物言いで、「あのバカ亭主看護婦を孕まして、うちにも二人子供がいるっていうのに、それがね~所長さん、凄い女なのよ。牛がソバージュしたような顔をして、家に押しかけて来て、私に出て行けって云うんだよ」だんだん興奮してきてべらんめー口調になってきた。
依頼人の夫は医者であることが分った。そして不倫相手が同じ病院の看護婦であること。家に来たと言っているから相手のこともある程度分っているのだろう。犬鳴は問うた。(色々なことをご存知のようですが、こちらで何をすればいいんですか、その女性との関係をご主人も認めているんでしょう)依頼人は「だからさ~バカ亭主も怖がってあの女から逃げ回っているって云うけど本当かどうか、亭主は絶対にもう会ってないって言うんだよ。職場が一緒だし何するか分んないからさ~」要するに、牛がソバージュみたいなパーマをかけた看護婦とこっそり会っているんじゃあないかと疑っているのである。夫の勤務する病院はK大学付属病院。依頼人は、勝ち誇ったように「あんたのところから近いからやりやすいでしょう」とおっしゃる。(分りました。私のほうは何時からでも着手できますがどうなさいますか)犬鳴が云うと、「今日からすぐ行動して。ハイ、とりあえずこれ着手金」と言って、帯の付いた100万円を投げるようによこした。
当時はまだ探偵業法も出来ておらず、調査を引き受けるに当って面倒臭い手続きは必要なかった。それでも犬鳴が(申し込み書ですが)と言って、用紙を出したら「そんな面倒臭いことはなしにして、調査料はいくらかかってもいいから」と言う。犬鳴は、我がままで気の強い奥さんだな~と思ったが、おそらく気持ちも動転しているのだろう。何不自由なく育てられたのだろう。自分の美貌にも自信があり、まさか夫が浮気なんかするとは、微塵にも思わなかった。ところに、牛のソバージュ女が現れ(奥さんまだ家に居るの、貴方のご主人の愛は私に有って、貴女には無いのよ。無駄な抵抗はやめて、子供を連れてさっさと出て行きなさい)と言ったものだから、怒り心頭に達し犬鳴探偵事務所に駆け込んだものらしかった。
しかし、この看護婦さんも凄い人である。妻子のある男性と深い関係になった場合、たいていの女性はひっそりと暮らし、自分の存在をひた隠す。何故ならば、男性の奥さんに知られた時が二人の別離の時だからである。でも、それは犬鳴の古い考えであって、最近の女性は我慢しないらしい。それにしても男性の家に押しかけ、正妻に向かって出て行けは無いだろう。またある時は、休日に家族揃って出かけようとしていたところに現れ、助手席に乗っていた依頼人を、(そこは私の席だから)と大声で叫び、引き摺り下ろそうとしたらしい。
犬鳴がまた聞く。(そんな時、ご主人はどうなさっているんですか)依頼人は、その場面を改めて思い出したのか、美しい顔を歪め「あのバカ亭主、怖がって、私と子供に下りてくれって言って、私も子供に危害を加えられると困るので下りて家に帰ったわよ。そしたら、ソバージュ女を乗せてどっかに行って、とうとうその夜は帰ってこなかった。あのバカが」と、さも悔しそうに吐き棄てる。犬鳴は(随分優しいご主人だな)と思ったが、依頼人が怖くて言葉にはできなかった。
すぐに着手して欲しい。という依頼人の求めに応じ、主たる被調査人柳原隼人と、ソバージュ牛の工藤沙織に関する素行調査を開始した。マルヒ等が勤務するK大学付属病院は外苑東通りに面して建っている。裏手にも研究室等の入る古い建物はあるが、医者や職員は玄関から出て、通りにある正門を利用する。と言う依頼人のアドバイスにより、車両班は2名、四谷三丁目方向に待機させ、徒歩尾行の調査員3名は、JR信濃町駅周辺で張り込ませた。看護婦の人相は不詳だが、マルヒの写真は預かってある。
総合病院の出入は多い。外来も居れば、入院患者を見舞う人も居る。ひっきりなしに往来する人の流れの中にマルヒを認めたのは19時を少し回った時だった。-------