探偵日記

探偵日記 1月10日土曜日 晴れ

朝6時に起床。今日はタイちゃんの散歩をしなくて良い日なので楽チン。そのかわり、最近行っている新座の練習場に行く。明日の月例のため。かなりいい感じでスイング出来た。この玉がコースで出れば間違いなく優勝だろうが、なぜかホールの景色を見ると、ちまちました手打ちになってしまうから不思議だ。そのあと、伊勢丹に車を停めて事務所へ。帰りに、味噌とグレープフルーツを買ってくるように山ノ神に言いつけられたから。17時、下落合の会社に報告書を届けて帰宅。ガード下のお寿司屋さん「松の寿司」で夕食を済ませる。

新宿・犬鳴探偵事務所 1-5

 調査の打ち合わせは、喫茶店で行った。調査員らにはポケットベルを持たせ、(三十分以内に事務所に来れれば何処にいて、何をしていてもいいから)と言うのだが、そんなことでは給料が貰えないのではないかと不安がり、誰一人として勝手な行動をせず、おとなしく喫茶店で待っている。そんなわけで、喫茶店の支配人やボーイ達とも仲良くなり、ボーイの一人が(探偵になりたいから採用して欲しい)と言ってきたので即決で採用した。だから、今まで犬鳴と女の子だけだった犬鳴探偵事務所は、あっという間に大所帯になってしまった。
そんなある日、事務の女の子(女の子では可哀想だから、これからは高子と名前で呼ぼう)が云う「所長、隣の部屋が空いたみたいだから借りましょうよ」と、犬鳴も限界を感じていたので(そうしょうか)と話していたところに、思いがけないところから神の手が差し伸べられた。

 少し前、犬鳴探偵事務所の広告を見たという婦人から、夫の素行調査の依頼を受けていた。探偵にとって、浮気の調査はさほど困難なものではなく、この件も、数日の尾行調査で不倫の現場を押さえ、相手の女性の身元調査も終えた。これで一件落着かと思っていたが、その依頼人は、それでも毎日のように電話をしてきて「犬鳴さん今日もやって」と、夫の尾行を指示してくる。犬鳴としては、もう面白くもなんともなかった。仕事を終えたマルヒがその女性の家を訪れるのを確認するだけの、(子供でも出来る)作業だった。或る日、少々うんざりした犬鳴は、(奥さんもういいでしょう。証拠は十分取れたし、相手の女性に損害賠償でもすればびっくりして別れるかもしれませんよ)と言うのだが、依頼人は、今日も明日も明後日も。という感じで頼んでくる。事務所はこの依頼人が支払う調査料だけで、調査員の給料や事務所のローンなどの経費が充分賄えるほどだった。

 また、依頼人は、日々の生活が余程退屈なのか、「ちょっとデパートに来たので」等といいながら足しげく事務所にやって来る。最近は、犬鳴が居ないときは事務の高子を相手にお喋りして帰るようだ。数ヶ月すると、裕福そうだが素朴な感じの依頼人が、何だか親戚のおばさんみたいになって、口の上手い犬鳴は、自分の田舎のことや幼い頃を面白おかしく話すものだから、有閑マダムは大喜びして帰ってゆく。そんな或る日のこと、おばさん。じゃあなくて、依頼人が「ワンちゃん、ご飯でも食べない?」と誘ってきた。この頃、依頼人は、犬鳴のことをワンちゃんと呼ぶようになっていた。ちょうど腹もへっていた犬鳴は、二つ返事でOKし、歌舞伎町の小料理屋に行ったのだが。ーーーーーーーーーーーー

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 犬鳴は、東京オリンピックの前年、昭和三十八年に上京したが、最初から探偵を志したわけではない。折角入った大学を中退し、何の目的もないまま刹那的に生活していたところに、後年上京してきた生母(あとで詳しく書くが犬鳴には二人の母がいる)が、彼女の兄で、犬鳴の叔父に当る人に、(兄さん、吾朗のことを頼むわよ。このままじゃああの子ヤクザにでもなりかねないから)と頼んでこの業界に入ったのである。叔父は、当時、帝國興信所といい、今は、帝國データバンクという名前に変わっている、日本最大の調査会社で調査部長をしていた。そんなわけで、最初はいわゆる興信所的な仕事、例えば、A社に依頼されてB社を調べるといった企業間の信用調査が主な仕事だった。ここで二年辛抱したのち、叔父の許しをもらい神田の「東京探偵事務所」に移ったが、ここで働いた僅か半年で、(俺の一生の仕事はこれだ)と決め、探偵の世界にのめりこんだ。

犬鳴の叔父はダンディな人で、興信所の調査員には珍しく、アルバイトで社交ダンスの教師もしていた。仕事が終わると、机からダンスシューズを取り出し、「おい、吾朗踊りにいこう」と言って、その頃賑わっていた新橋のダンスホール「フロリダ」に良く行ったものだった。しかし、暫くすると「春枝が、お前にダンスを教えると気違いに刃物になるからやめてくれっていうんだ」と言って誘われなくなった。春枝というのは僕の生母だが、彼女がそんなことをいうはずは無い。だって、常々、「吾朗あんたダンスぐらい出来なきゃあだめよ」と言っていたのだ。おそらく叔父は、犬鳴にダンスのセンスがないと見極めたのだろう。犬鳴自身も、歌を唄えばオンチ気味だし、踊っていても何となくリズムに乗り切れないと感じていたので、叔父には残念そうな顔をして承知したものの、本心は(ああ、良かった)と、ほっとしていた。
犬鳴は、叔父の本心はともかく、自分がしっかりダンスなぞ覚えようものなら、今でさえ女性問題が絶えないのに、ダンスを武器にますます派手に遊びまわるだろう。そうしたこともあって、その後、犬鳴はダンスと縁を断った。犬鳴は身長百六十五センチと小柄で、決してハンサムではないが、とにかく女性に良くもてた。一つには非常に口が上手く、加えて、まめである。犬鳴は常々、女性にもてる最大のコツはまめに限る。と思っていた。いくら美男子でお金持ちでも、(来るなら来い)という感じでは女性に敬遠される。おしなべて、女性というものは自尊心が強く臆病である。したがって、まず(私はこの男に惚れられている)と思ってもらわなければならない。次が波状攻撃である。特別な用もないのに繁々と電話する。それも同じ時間帯にすることだ。毎日毎日、お昼休みに電話がかかってきてたのに、その日に限ってなければ(どうしたんだろう)と思うのが人の心理であろう。しかし、相手にその気がなければ別だ。煩くかかってきていた電話が無くなれば(あぁ良かった)と、ほっとされるのがおちである。人間不思議なもので、毎日同じ時間に連絡があれば気持ちの何処かに(待つ)意識が生じる。職場でも同僚から「あら、今日は定期便無いのね」なんて冷やかされる。そして、あくる日も、そのあくる日もかかってこなければどうだろう。もしその相手の電話番号を知っていたならばかけてみたくならないだろうか。