背信 その8

探偵日記 1月17日木曜日晴れ

あれから3日も経つというのに至る所に雪が残り、道路脇には大きな雪塊が見られる。自然の怖さを改めて実感する。それに引き替え人の心の闇というか、色々は、何とも小さいもので、傍観すると滑稽ですらある。今日の朝刊に、「毎日新聞の記者がストーカーで逮捕された」記事が載っていた。41歳という。偶然僕の家に近い阿佐谷北の住人らしい。人を好きになる。或いは、嫌いになる。ごく当たり前の心理である。しかし、自分を好きになってくれた女性(または、男性)が心変わりをしたらどうだろうか、こういうことも極く自然で、そのままを受け止めなくてはならないんだと思う。特に、男の場合(歯を食いしばって耐えるべきだろう)女性はもう少し取り乱しても良い。なぜなら、そのほうが女性らしい。と、僕は思う。探偵の僕は、日常茶飯事のごとくこうした男女関係の葛藤を目の当たりにする。そして、これが仕事になって行くのだ。(昨日まで愛してるって、メールくれたのに、一夜明けたら、暫くお会いするのをやめましょう)と言われた女性からの依頼で、数日前から多摩方面で調査を行っている。

厳密に言うと、(ストーカー的な調査依頼で、きっぱり断るべきかもしれない)が、弁護士事務所の紹介であり、その女性の深層心理に邪心を感じなかったから引き受けた。彼女は、たんに、自分を納得させられれば良いのであって、彼に、自分に代わる女性が居たなら「それはそれで結構だ」と言っていたし、「男なんか星の数ほど居る」とは言わなかったが、そんな、毅然とした態度であったし、(凛)とした精神が感じられた。間違ってもストーカーにはならないだろうと思えた次第である。ただ、僕は、ストーカーが皆悪いとは思っていない。確かに、執拗に尾けまわしたり、無言電話をかける行為は良くないし、神奈川県逗子市のような殺人事件に発展することは言語道断である。

僕が子供の頃に読んだ本で、(天の夕顔)というのがあった。たまたま近所に住み、ちょっと親切にされた主婦を、主人公の学生が恋焦がれ、その人に会いたいばっかりに、その人の生活圏から離れられない。というストーリーだったと記憶するが、子供心に、主人公の心情に感銘したものだ。ということは、僕自身に、ストーカー的な部分があるのかもしれない。否、あると思う。しかし反面、かなり見栄っ張りな人間である僕は、相手に対してはなおさらのこと、周囲に謗られるようなまねは絶対にしたくない。だから、行動派ならぬ純情的なストーカーだろう。

もう一つ。最近行った素行調査で、マルヒはサラリーマンの男性で、数日の尾行調査で、不倫相手の女性も判明したが、なんと、歴とした人妻であった。これだけなら、世間にはままあることで驚かないが、女性の子供とサラリーマン氏が、まるで親子のように交わっていたのである。僕も調査員も(ああ、彼女はバツいちの母子家庭なんだろう)と思っていたら、夫と円満に、且つ、極めて裕福に生活していたのであった。(夫に知られたらどうするの?)-------

背信 その8

その新妻と勤務先の上司はかなり前から不倫関係になっていた。ところが、どういう心境か、女性が結婚してしまった。勿論、上司も披露宴に招待された。なのに何故、上司曰く、「彼女に呼ばれてオーストラリアまで来て、近くのホテルで待機していた」らしい。そこに、夫をホテルに残して女性が訪れた。ところが、うっかり長居してしまい、心配した夫が警察に捜索願を出したため、上司との関係が発覚、世間の笑い者になってしまった。夫婦は帰国し、成田空港で右と左に別れたらしい。以来、(成田離婚)と言う言葉が流行した。

元に戻す。一(にあがり)さんと称す依頼人夫婦もこれに似ているが、もっと罪深い。とても笑って、じゃあね。とは言えない期間であり大きな裏切りである。僕は今でも時々思う。何故、良子は、一さんと結婚したのだろうか。一さんには悪いが、女性にもてるタイプではなかった。むしろ真逆で、最も女性が嫌うタイプの男性。と言っても良いぐらいだった。確かに、3高であった。高学歴、長身、高給、どれをとっても僕とは真逆である。しかし、僕のほうがうんともてる(そんなことは誰も聞いていない)

その依頼人が、酔った勢いで「結婚して欲しい」と言った。仮に、その時、軽い気持ちで返事をしたとしても、冷静に考えれば、自分の夫として満足できる相手かどうか、良子には分っていたはずである。それは、良子の心理として、Yに対する面当てのような気持ちがあったかもしれず、また、結婚してみればそのうち情もわくかも知れない。と考えたのかもしれない。良子も適齢期を過ぎていたし、前述のように、見栄えや性格はともかく、社会的には依頼人の(妻)は魅力があったのかもしれない。しかし、それにしても長すぎた。

新婚初夜や、新婚旅行中も一さんとの夫婦生活を拒み、その後も、理由を設けては退け続けた夫である。生活の安定や世間体だけで引きずるには、20年長過ぎる。良子は、一さんと結婚したことで、Yを裏切り、周囲や自分をも裏切った。(背信)と言って片付けるには余りにも大きな「嘘」であり、純真に愛そうと努力した一さんへの謝罪はどんなことをしても償いきれるものではないだろう。

その後、Yは、折角の昇進が頓挫し、子会社の閑職に追いやられた。一方の良子は、離婚に伴う財産分与で自宅を手放し、今は、神奈川県平塚市で老父母とともにアパート暮らしである。心に大きなトラウマを抱えた一さんは、勤務先を定年退職した後、傍系の会社に末席ながら取締役に就任。再婚したらしい。と、風の便りに聞いた。------