見習い探偵 3

探偵日記 5月20日月曜日曇天

昨日日曜日阿佐ヶ谷のゴルフコンペ(サンサン会ーひととのやカントリークラブ)新年度第一回目が開催された。コースは何時も同じで栃木県小山市にあるひととのやカントリークラブ。年12回は必ず行くし、そのほかも時々行くのでキャディさん達とも顔馴染み、レストランの支配人やウエイトレスさんも親しみを込めて迎えてくれる。こういう面がメンバーシップの良いところだ。8:21スタート。僕は第2組目で、29分アウトコースから出た。パートナーは、建設会社の社長酒井さん、74歳だが腕っ節が強く毎回優勝候補、幹事で阿佐ヶ谷のレストランのマスター吉村さん、前夜、そのレストランで、高らかに優勝宣言した、葬儀会社の社長、金井ちゃん。僕は、そんな彼を冷たい目で見ながら、(今日は俺の優勝だ)と、秘かに闘志を奮い立たせていたが、結果は、飛距離300ヤードのドライバーを誇る金井ちゃんの優勝。僕は次点に甘んじた。

パーティのあと、何時ものように(天国に一番近いスナック)「ほろよい」へ。1,2,3位と、びりから3番目の富ちゃん(設計会社の社長、ハーレーに乗っている)の4人で行った。下手な歌を歌って、22時帰宅。

今朝は霧雨の中タイちゃんの散歩。勝手知ったる中央線の高架下へ駆け込み45分歩く。ワン公もこんな日は面白くないらしく、(帰ってご飯食べよう)と言うと、さっさと家のほうに向かう。8時に朝食を済ませ事務所へ。

見習い探偵 3

S君が辞めてまた事務の高ちゃんと二人きりになった。ただ、この頃から何となく忙しくなっていたので、ちょこっと募集を出したら数人の応募があった。その中の一人、B君、板橋の床屋さんの息子で、理容師の資格を持ち、母親と一緒に働いていたが、どうしても探偵になりたい。という、可愛い子供の願いを聞き入れお母さんも許してくれたらしい。年齢的にもこなれていたし、度胸もありそうなので採用した。暫くすると、アメリカに住んでいる犬鳴の兄から、「長男の勇貴を頼む」と言われ事務所に入れていたので、調査員は5名に増えていた。犬鳴探偵事務所がまだ1ルームのオフィスマンションにあった頃で、井口夫人と知り合う少し前だった。

犬鳴は、探偵見習いとして勤務した神田の東京探偵事務所で、特殊なノーハウを会得していた。これが調査に甚大な効果をもたらし、弁護士事務所や顧問先の企業などから喜ばれたし、(腕の良い探偵事務所)としての評価と信頼を得ていた。したがって、方々の現場でその機械が活躍していたのだが、最近その機械がよく失くなる。調査員が現場で調子を確認しようと赴くと、(あるべき場所に見当たらない)と言う。犬鳴も(変だな~)と思っていたが、深く考えず新しいものに取りかえて凌いでいたが、4台目が失くなった時、そこに至る経緯を考えてみた。そして、4台ともB君が現場を訪れた後、次に行った調査員が無いことに気づく。調査員達も同様で、B君に不信感を募らせていたが、確信の無い中傷を犬鳴には言わないようにしていたという。

犬鳴は、ある時B君と二人きりになって、(君は非常に腕の良い探偵になった。どうだろう独立してうちの下請けにならないか)と持ちかけ、切りの良い日で辞めてもらった。まだ半年にもならない男に独立せよ。と言う方も無茶だがB君は「分りました」と言ってすんなり承知した。ところが、退社した翌日、B君から電話がかかってきて、「今回の解雇は納得できないので労働基準監督署に訴える。それが嫌なら相応のお金を遣せ」ときた。犬鳴が(ああそうか、じゃあ君の家にある機械はどうするか。)と言うと、返事のないまま電話が切れてしまった。(舐められたもんだな~)と思った犬鳴だったが、調査員は事務所の秘密を共有している。特に、依頼人の住所氏名、マルヒのこと。決して公表されてはならない。その頃、ある現職の大臣の素行調査を引き受けていた。公表されれば大スキャンダルに発展する。本来ならば、(横領)で刑事事件にすることも出来たが、敢えてしなかった。その代わり、(これ以上俺に逆らうんじゃあないよ)と、暗に釘を刺して置いた。

そんなことが有ってから、事務所では調査員の採用にあたり、(身元保証人)を求め、退社後に勤務中知りえた情報の口外を禁じる策を講じた。それでも今日まで、問答無用に解雇したことはない。いくらコン畜生。と思っても、優しく諭し、独立や転職を勧めてきた。お陰で、40年以上経つが今のところそんな不良社員は出ていない。

後日談、それから1年ぐらい経っただろうか。たまたま知り合った調査会社の責任者が、「最近採用した青年でなかなか優秀なやつがいる。」と言う。さらに、犬鳴が聞きもしないのに、その人物の経歴まで話してくれた。前職が理容師だという。犬鳴が(その人、特殊な機械を持っているでしょう)と言うと、責任者は、わが意を得たりとばかりに、「ええ、数台持っていて、業務に役立っている」と喜んでいう。当時の費用で、1台20万円位だったと記憶する。半年間の勤務で高い退職金となった。---------