探偵物語 23

探偵日記 8月4日月曜日 晴れ

土曜日曜とうだうだして過ごす。ゴルフの練習にでも行けばいいのに、こう暑くてはその気にもなれない。部屋のクーラーを冷房にしたり除湿にしたりして熱中症にならないよう注意する。勿論この間もタイちゃんの散歩は休めず、朝4時過ぎに出てもモヮ~とする中、阿佐ヶ谷の住宅街を徘徊した。
今日は週の始め、気合を入れて事務所へ。

探偵物語 23

全国に5500社余り、この数字が主管がまとめた探偵社の数だという。日本調査業協会の下部組織として、東京、大阪を中心に、北海道、青森から、九州、おきなわ、四国等にそれぞれ協会が設立され、東京は、東西南北、中央、多摩、の6支部に分けられ、僕の所属する城西支部は30社余りの業者が集い、初代の支部長に任命された。いきおい、数多くの他社を知ることになって、交友範囲も急速に広まった。中には変わり者の経営者も居たり、曲者揃いと言って良いほど多彩な顔ぶれだった。日本調査業協会の初代会長、木村正一氏は、警視庁の出身で、丸の内や愛宕署の所長を歴任した人物。東京の会長は、テイタンの社長、故廣嶋澄雄氏。テイタンは元帝国秘密探偵社と称し、千駄ヶ谷の駅近くに本社ビルを有し、自他共に認める探偵社の雄である。副会長は、武藤氏。この人も警視庁出身で、1課長の時、よしのぶちゃん誘拐事件(犯人の小俣に誘拐され、結局遺体で発見された)や、三億円強奪事件の指揮を取った人物。協会では、主管の覚えを良くしたい意向もあって、OBを厚遇したともいえた。

但し、その他の理事となると玉石混合(僕を含めて石に近い輩が多かったが)で、変わったところでは、池袋の故本田秘密探偵社の本田治氏。一説によると元関西のヤクザで、前科11犯といわれたが、なかなか迫力のある人だった。その他いずれも豪傑ばかりで、僕など可愛いものだった。また、(陸軍中野学校出身)が売りの故児玉氏。大久保通りと山手通りが交差する角に事務所を構えていたのでご存知の方もいらっしゃると思うが、(日本人かいな)と思うほど言語が怪しげだった。ただ、長年経営し、弟子も多く排出したので相応の力は有ったのだと思う。これも風説の範囲だが、台湾人という説もある。亡くなる直前まで時々お会いしていたが、眼光鋭く、一種の「探偵」の形をお持ちだったように思う。

こうして、昭和も終わりに近い63年9月5日、ホテルオークラの大広間を借り切って「社団法人日本調査業協会」の設立記念パーティが盛大に開催され、(警備業法を下敷きにして勉強しておくように)と言う、主管の指導の下、業法制定を目標に勉強会が始まった。それは、時を同じくして、怒涛のように押し寄せた好景気の波と同調するように。ーーーーーーーーーーーー