あの橋から その6

探偵日記 11月30日金曜日晴れ

11月も今日で終わり。早いもので、事務所では、年賀状の準備、お歳暮、忘年会、来年2月に企画している社員旅行の話題で盛り上がっている。わが事務所の調査員は、少々探偵としての能力に問題があるようで、事務所の経済状態や僕の苦労が見えないらしい。まあそれも仕方ないかもしれない。毎週必ずゴルフに行くし、午後3時過ぎるとそわそわしはじめ、いつの間にか居なくなったと思えば、歌舞伎町の麻雀荘にいる。毎晩のように飲み歩き、事務所で深刻な顔をしたことがない。

バブル崩壊直後、大所帯になった事務所は毎月1500万円以上の経費が出た。にもかかわらず、収入は2~300万円という月が続き、さすがに暢気な僕も思い悩んだ時期があった。ある時、調査部長と食事をする機会があり、冗談めかして聞いてみた(うちの事務所はやっていけてるって思う?)部長曰く「思います」僕はまじまじと部長の顔を見て、(責任の無い人はいいなあ)と思ったものだ。但し、彼を責めているのではない。事務所が暇なのは全て僕の責任である。たとえ世の中が不況だろうと、仕事がないのは調査員のせいではない。そのかわり、ひとたび調査に入ったら熱意を持って臨んでもらいたい。ジョニーじゃあなかった。僕の、調査員たちへの伝言である。----

昨夜驚くことがあった。僕は毎日、血圧を測定している。時間はさまざまで、朝起きてすぐの時もあれば、散歩から帰って計ったり、寝る前のこともある。そして昨日の夜。何時ものように居酒屋で少し飲んで帰宅。22時、ベッドに入って、(ああそうだ)と思い、計ってみた。上が118、下が61、少し低すぎるんじゃあないか。などと思いながら、携帯電話に記録を残す意味で、118♯61♯22と打って、さあ寝ようと思った時、携帯が鳴って、男性の声で「海上保安庁ですが事故ですか」と聞く。僕は(いいえ、これから寝ようと思ってるんですがなんでしょう)なんて間抜けに応えた。1186122この数字が何らかの形で、SOSとなって、海上保安庁にかかったらしい。

それにしても、僕の携帯番号が瞬時に同庁の知るところとなった事実に驚いた。おそらく先方は、GPS機能で僕の位置も把握しているだろう。少なくともどこかの海上で、波間に漂っていないことは分かっているはずだ。僕が(家で寝るところ)と言うと、先方は含み笑いしていた。それにしても怖い話である。------



あの橋から その6

毎日が多忙で、日々の暮らしを幸せに感じていたのでつい見過ごしてしまった。夫の雅之が、アルバイトを口実に外泊していたことに、深い疑念を持たなかった。雅之は、勤務先から帰ると、はなちゃんの散歩を済ませ、自転車で通えるバイト先に行くのが日課である。時には、0時を過ぎることもあったが、家族のために昼夜と働く夫に感謝こそすれ苦情を言う理由は無い。長女も小学校の高学年になっていたし、息子の翔と二人分のお弁当と、朝食を用意しなければならない末子は、雅之の帰りを待ちながらついつい寝てしまい、朝方目が覚めると雅之が横で寝ている。何てことはしょっちゅうだった。

雅之の下着が洗濯機に入れられることが無くなり、自宅でシャワーしなくなったことに気づいたのは、東日本大震災から数日経った頃だった。それとなく注意してみると、雅之は末子が目覚める少し前に帰って来て、ほとんど仮眠も取らず出勤している。何時ものことだが、末子が子供たちを送り出し、慌しく出勤してから雅之が出てゆくパターンは変わらず、末子が帰宅する前にバイト先に行くので、このところ夫婦の会話も途絶えがちだった。たまの日曜日も朝食は一緒に食べるが、夕餉は何だかんだと理由をつけて外出し、アルバイトも無いのに深夜帰宅する。

(また浮気を始めたのか)末子は絶望とともに確信したが、どういう訳か今度は正面きって問い質せない。末子のほうから切り出すのを待っているような気もする。ある時、雅之の下着が末子が買ってきたものではないことに気づいたが、見てみぬ振りをしていたら、また違う下着をつけており、前の下着は洗濯機に入っていない。相変わらず、家でシャワーをせず、食事もほとんどしなくなった。そのうち、勤務先から一旦家に帰ることもせず、はなちゃんの散歩もはしょって、大学受験で猛勉強している長男が代わってするのをみて、朝晩の散歩を末子がしなければならなくなった。

夜の散歩の時もはなちゃんは、あの橋に行く。犬のくせに、感慨深げに橋の下をのぞいているはなちゃんにつられて、末子も、両岸が雑草に覆われた小川をぼんやりと見ることが多くなった。そんな時、あんなに幸せだった家庭が音を立てて崩壊する。焦燥感と、言いようの無い侘しさと悲しみで、橋の上にしゃがみこんだりもした。

1学期が終わり夏休みに入って間もない日の夜、子供たちが寝静まった頃「ちょっと話したいことがあるんだけど」と、雅之が話しかけてきた。末子は一瞬緊張し、そのあと、身体が熱っぽくなり少し震えた。待っていた。わけではない、出来ることなら聞きたくなかった。雅之も何となく照れくさそうな顔をしている、末子は、今では、家族揃って団欒することも無くなったダイニングの椅子に俯いて座り、静かに雅之の言葉を待った。-------