探偵日記 12月07日金曜日晴れ
朝5時50分、タイちゃんを連れて外に出る。昨日の朝と比べ風が冷たく感じる。中杉通りの欅や、青梅街道のイチョウも、その黄金色の葉を落とし歩道は金色の葉だたみ。もうすぐやってくる冬将軍の到来を予期させる。僕は寒いのは大嫌いだ。小さい頃、雨が降ったり寒かったりする日は、(ター坊、今日は休みなさい)と言って、学校をサボらせてくれる理解のある養母だった。彼女の言い分は、(嫌々学校に行っても授業が頭に入らないだろう)というものだった。僕も幼い頭で(さもありなん)と、同意し、一日中コタツに入って(花札)をしたり、読書にふけった。僕は、小学校低学年の頃から、当時発売されていた(オール読物)や、(時代小説)を、本好きの養母とまわし読みしていた。
或る時、突然担任とクラスメート数人が訪れ、びっくりした僕は素早く布団にもぐりこんだ。先生たちは、心配して僕の様子を見に来たらしい。人気者は辛い(笑)
あの橋から その12
まもなく救急車がサイレンを鳴らして到着。父は間に合わなくて、翔が付き添った。生まれて初めて乗る救急車に傷ついた母と病院に向かう翔は、母の右手をしっかり握り、ここ数ヶ月の我が家の出来事を思い浮かべ暗澹たる思いになった。18歳になったものの、当然ながら翔には全体像の理解は出来ない。ただ、あんなに仲の良かった両親が、家にいてもほとんど会話せず、母は、父の顔色を窺うばかりで、家事をする時も俯いていることが多かった。父が「お母さんより好きな人が出来た」だから近いうちこの家を出る。と言っていた。翔もクラスに気になる女の子がいた。だから、父の言う(好きな人)の意味は何となく分る。だけど、僕たちの父親もやめて家を出る必要があるのだろうか。
そんなことを漠然と考えているうちに、前にも母が入院した病院に着いた。ストレッチャーに乗せられ手術室に入る母を見送って、薄暗い待合室のベンチに腰掛けていると、不機嫌な顔の父が来た。「どうしたんだ」と聞く。(詳しいことは分らないけど血が出てた)翔は、母が手首を切って自殺を図ったことぐらい分っていたが、父にも考えてもらいたいという意識が働き、曖昧に応えたが、父は、「まったく自分勝手な奴だ」と、吐き捨てるように言う。
2時間位たっただろうか、看護師が呼びに来て手術室に行くと、まだ麻酔が効いているのだろうか、眠ったままベッドに横たわっている母がいた。「どうしますか?傷は浅いので簡単に応急手当をしておきました。一晩泊めますか、それとも、もう少ししたら目が覚めるでしょうから、家に連れて帰りますか」当直の若いドクターは、事情を察してか、優しい言葉で父に言っている。父が(お手数をお掛けいたしました。少し待って家に帰ります)と応え、「翔は先に帰って寝なさい」と言うので、父を置いて翔だけ病院を後にした。
翌朝、母は帰宅しており、包帯をして痛々しい手でパンを焼き、温かい牛乳を出してくれた。翔と茜に対し、少し恥ずかしそうに(ごめんね)と言う。茜は、本当は心配でたまらないのに、ムッとした顔でひと言も言わず飛び出していった。あと2ヶ月ちょっとでセンター試験を控えている翔は、少し遅れて家を出たが、玄関まで見送った末子に、(お母さん。何があっても僕がついているから自分を大事にして欲しい)と言い残し、(じゃあ)と言って学校に向かった。
ダイニングのテーブルにぽつねんと座り、翔の言葉を反芻してみた。まだまだ子供だと思っていた翔に言われたひと言が胸に沁みる。自分の弱さがつくづく嫌になった。(雅之は私にとってそんなに大きな存在だったのだろうか)末子は、夫をないがしろにしたとか、一度だって粗末に扱ったことは無いと考える。なのに、夫は、結婚以来、「大事にされた記憶は無い」と言う。あの時はこうだった。何時かもこんなことを言って僕を責めた。などと、末子が思いもよらない瑣末な出来事をあげつらい自分の立場を正当化する。今日も、病院からの帰路、雅之は「本当に死にたいのなら別の方法を考えてみたら、僕は君が何をしようと、この先、君との生活を続ける気は一切無いから」と、冷たく言い放ち、着替えもせずに出勤した。
思えば、GW頃から勤務先を再々欠勤した。末子は契約社員ながら事務能力は一定の評価を得ており、特に、今の直属の上司には可愛がられていた。一つには、仕事に必要な(業法)に精通している末子は部で欠かせない存在であり、同僚や上司との協調関係も良好である。めったに、ジョークも言わず、一見するとやや暗いイメージの末子だが、対人関係の融和を保つのが上手く、厄介な取引先も末子には一目置いている。だからといって、あんまり杜撰なことも出来ない。2度の救急車騒ぎの時は有休を使い、そのほかは、体調不良を理由にした。幸い、女子の場合、生理痛などを理由にすれば、男性の上司には通りが良い。それと、子供もいるから何かと事情が生じる。しかし、限界があった。
この日も、(すみません子供の具合が悪くて)と言うと、上司の部長は「大変だね、でも今日は難しい契約も無いからいいよ」と、気持ちよく承知してくれた。
季節は、晩秋にさしかかり庭の木も色づき始めた。雅之は「君が離婚に応じなくても11月末でこの家を出る」と言っているし、何か手段を講じなくてはならない。勤務先の上司はまったく気づいていなかったが、半年で10キロ近く痩せた末子を同僚の女性らは訝しく思い始めつつあったし、自宅の近所は周知で、親しいママ友からは「何でも相談してね」と言われていた。末子は、この日、家族ぐるみで付き合いのある(糸ちゃん)に、思い切って相談した。------