依頼人には妻と二人の子があるという。不思議でもなんでもない当然の状況であろう。小たりとはいえ会社を経営、経歴も人に誇れるものである。
実父の逝去を機に、およそ10年前、長年勤めた商社を退職し家業にはいった。実父は鉄鋼関係の二次問屋を経営していたが、業界では知らぬものが居ないほどの人物で、一時期は、カルテルをも仕切っていたらしい。豪腕で経営能力もずば抜けていたようで、本業以外に、所有するビル等の自社不動産を管理する会社や、運送業、海運業と業容の拡大を図り、業界の会長にも就任、重鎮であった。自分は一生サラリーマンでいこう。と思っていた依頼人は、自身の意志とは関係なく、グループ本体の社長になり、就任早々バブル崩壊の処理をする羽目と成った。「僕は小さい頃から花が大好きで、定年後は花屋をやるつもりで、実際に今2店舗営業しているんです。」と言っている通り、姿勢を崩さずにこやかに話す依頼人を見て、僕は、(この人には企業の経営よりそっちのほうが似合っているかもしれないな」と思っていた。
「実はある男性の身元調査をお願いしたいのですが」やっと本題に入った。しかし、僕は内心少々気落ちしていた。正直に言って、(何だ、そんな調査か)と思ったのである。僕は時々深読みする傾向がある。「妄想」と言ってもいいかもしれない。依頼人の話をちゃんと聞く前から、自分なりのストーリーを作ってしまうのである。勿論はずれることも多いが、かなりの確立でピタっと嵌る。これは探偵の勘かもしれないし、たんに経験則かもしれない。しかし、勿論落胆した気振りなど見せずに、(分かりました。対象はどんな人ですか?)と聞いてみた。しかし、依頼人は僕の質問が聞こえなかったのか「最初からこんなことをお聞きするのは失礼かもしれませんが、凡その費用と時間をお聞かせ頂けませんか」と聞いてきた。バブル崩壊後15年を経て、依頼人や調査を依頼しようとする企業も、まずは費用対効果を考えるとともに、財布の紐をしっかり締めている。
僕は、(そうですね。調査は色んなやり方があって、普通の身元調査で、聞き込みを重視して行うような場合、30万円~50万円でしょうか。最近は、個人情報保護法という法律が出来て他人の住民票すら取れなくなっているんです。でもまぁ身元調査には住民票や戸籍は欠かせませんので、何とかして取得するのですが、そのための費用も別途必要なのです。その反対に、ある程度の時間と費用をかけて下されば、かなり深いところまで分かります。)やや回りくどく丁寧に説明して、依頼人を見た。
依頼人は穏やかな顔で、時々頷きながら聞いていたが、「後者のほうでお願いします。とは言ってもこんなご時世ですから無尽蔵に費用があるわけではありません。ですが、あんまりケチって貴方に迷惑をかけるわけにはいきませんので徹底的に調べて欲しいんです。」と言って、僕の言葉を待っている。探偵もここからが正念場である。調査に賭ける依頼人の情熱と、調査費用は比例する。僕は、マルヒを丸裸にするための色んな調査方法や、その都度の調査料金を説明した。元から、お互いが懇意にしている弁護士の紹介である。多少の信頼関係は出来ている。僕が説明した料金について、依頼人がどう思ったか分からなかったが、とりあえずの費用が数百万円になることを知っても表情に変化は現れなかった。そのあと、「少々お待ち下さい。」と言いながら部屋を出て行った。
3分ぐらいして部屋に入ってきた依頼人の手に、銀行の封筒が握られ、「少ないかもしれませんがとりあえずこれを。着手金と言うのですか」と言って僕にくれた。(では、今領収書を)と応えながら依頼人を見ると、「100万円入っています」と言う。
僕は、内心自分の勘がはずれていなかったことに満足すると共に、不謹慎ながら、少し面白い仕事になりそうだ。と思った。その後、マルヒについて質問したが氏名や住所など全くと言っていいほど情報を持っていなかった。ただ、依頼人が十数年交際し、近々正式結婚しようとしている女性の相手だという。ーーーーーーー
昨日は、今年に入って参加した或るサークルの勉強会があり、車で出勤した僕は珍しく酒を抜いた。すると、睡眠も十分取れて、目覚めは快調。10時前には事務所に着いた。勉強の内容も心身が洗われるような内容だったし、良し今日は頑張ろう。