あの橋から その25

探偵日記 12月26日水曜日晴れ

今朝は特別寒かった。06時、携帯の目覚ましで起こされる。ドアの外を窺うとタイちゃんが待ちかまえている気配がする。やれやれ仕方ないか、と、思いながら散歩の支度をして外に。キーンといった寒気が体を包む。文字通り身の引き締まる感じだ。歩きながら、腕を回したり、ピョンピョンはねるようなストレッチを繰り返し、あとは、タイちゃんの気の向くまま、早朝の阿佐ヶ谷をトロトロ歩き、07時帰宅。

今年もあと6日、これといった収穫の無い1年が終わろうとしている。ゴルフを55回(今年は事務所の移転等で、GW故郷に帰らなかったので5回ほど少ない)やったほか、朝の散歩も始めたので体調は悪くない。6月、年1回の人間ドックで、大腸と膵臓にポリープがある指適され、大腸のほうは良性だったが、膵臓は様子を見ている状況である。やや、膵臓の働きが鈍化しているためインシュリンの出が悪く、糖尿の値が上がっているそうだ。生まれて初めて自分の健康に危機感を抱いた。

さて、今書いている「あの橋から」フィクションに挑戦してみたが(実際の案件を素材として、いつもよりフィクション要素を強くしてみたが)難しいものだ。自信をなくしたので、何処かで終えたいのだがチャンスを見出せないで居る。やはりプロの作家はたいしたもので真似するわけにはいかない。思いつくままだらだらと書いて(物語)に成るならみな作家になるだろう。つくづくそう思う此の頃である。



あの橋から その25

翌日、夫からメールで(会いたい)と言って来た。末子は、(今更顔も見たくない)心境だが、永瀬に相談すると「会って来なさい。逃げていても問題は解決しないし、今、向こうの心証を害して、約束を反故にされたら困るのは貴女でしょう」と言う。とにかく冷静に話し合って、養育費のことをきちんと決めていらっしゃい。と言う永瀬に背中を押され、午後8時、鷺沼のファミレスで会う約束をした。

(会った時、夫や相手の女性に襲われるんじゃあないか)怖いから嫌だ。と、駄々をこねる末子を、ドラマじゃあないんだからと笑い飛ばし、じゃあ僕が遠くで見ててあげる。と言う永瀬に、(夫と会っている姿を見られるのも嫌だな)と思った末子は、(ありがとう。大丈夫何とかしてきます)と、気丈に言って、約束の時間にそのファミレスに行った。夫は先に来ていて、背中を丸めてコーヒーを飲んでいる。(晴れて、好きな人と暮らせて幸せでしょう。そんな淋しそうなポーズをとらないでよ)と、思いながら、それでも、(遅くなりました)と言いって向かいの席に座った。

不思議な思いである。(出て行かないで)と、自殺まで図って追いすがった夫に相対し、今の末子は、心にさざ波も立たない。努めて平静に。と思いながらやってきたのに、ちょうど、会社で、顧客に相対し契約書の説明をするがごとく、極めて事務的に会話を進めることが出来ている。むしろ、夫のほうがぎこちなく、末子の顔をまともに見れないほどだ。「何か食べる?」と聞く夫に、(いえ、もうすませましたから)と応え、(じゃあ、〇△日、横浜の公証役場で、書類が出来次第、その場でサインしますから)さらに、(あ、市村さんもご一緒にいらっして下さいね。本人確認と自署が必要のようですから)と付け加え、まだ何か言いたそうな夫に、それでも最後に小声で、(お幸せに)と告げ、あっけにとられる夫を残し店を出た。

車に乗り、店から少し離れたところまで走り、路肩に停車し永瀬に電話をかけた。残業で会社に居るという永瀬に(拉致されなかったわ。お陰さまで来週の火曜日、公証役場で契約書を作成することになりました。ええ、条件面で異存は言われませんでした。ン?特に、)永瀬は、夫の様子を聞きたがったが、末子は、特に変化はなかった。と答えた。ただ、これから会おうか。という永瀬の誘いは、何となくその気になれず(まだ子供たちにご飯食べさせてないので)と、取り繕って、やんわり断った。彼は大人である。冷静に対処しただろう末子の疲労感と、やりきれなさを充分理解し、「あ、そうか、お母さんもしっかりやらないとね」と、笑いながら言い電話を切った。

その日が来た。今日も寒々とした小雨が降っている。勤務先から半休の許可を貰い午前9時、公証役場が開くと同時に受付をすませ、「相手方が来るまでこっちで待ってて下さい」事務員に言われた小部屋で待つことにした。どうしても市村かおりを見てみたい。と言う永瀬と駅で落ち合い、大きな公園を半周して役場に着いた。その永瀬は、通行人を装い、何処かで見守ってくれているはずだ。数分して、夫と、探偵事務所の報告書で知っている相手女性の市村かおりがやってきた。

じゃあこちらで、と言う事務員に誘導されて、公証人に部屋に入り、それぞれ、身分確認された後、離婚の条件一切が記された公正証書に自署と捺印を済ませ、続いて、離婚届にサインする。公正証書には、市村かおりも保証人として加わり、離婚届にサインする場面では退室した。始終俯き加減で、末子の顔を見ようとしなかった。末子は、何かひと言有るかな。と思っていたが、会釈すらなかった。夫はというと、こちらも無言で硬い表情をしている。無理も無かった。不倫相手に総ての資金を出させたうえ、向こう10年間、別れた妻への支払いを保証させたのだ。

(熨斗をつけてくれてやる)という気概で臨んでいる末子はともかく、見栄えこそ普通だが、安サラリーマンの中年男を、平穏な家庭を破滅に追い込んでまで奪った張本人である市村は、(よくもぬけぬけと)出て来るのが精一杯だっただろう。元、夫がどんな台詞で口説いたのか分らないが、彼はこの一点を取っても、一生、市村には頭が上がらないだろう。末子は、(あなた、ババ掴んだのよ)言ってやりたいぐらいだったが、その機会を逸した。

昔、こんな男が居た。不倫のあげく妻子を棄て、その女性と暮らし始めたまでは良かったが、その女性に浮気され、さんざんストーカーをしたうえ、棄てた女房に詫びを入れ、こともあろうに、女房に不倫相手を訴えさせたのである。「弁護士を紹介して欲しい」と頼まれた僕は、(最低の男だな)と、軽蔑したが、顧問先の社員だったのと、調査料も「裁判が終わったら払う」と言うので、嫌々付き合った。結局、相手の若いお嬢さんは、女房ならぬその男に200万円払わされた。若いがゆえの失敗だろうが、男を見る目がなかった。ことに尽きる。

しかし、加納雅之の相手は四十半ば、恋愛の経験もあるだろうし、多少は、男性の価値も判断できる年齢であろう。否、この日、末子が見た市村かおりは、背が低く小太りで、農婆を思わせる女性だった。元夫曰く、「最高の女性だ。君と違って頭も良いし、料理も上手い。お互い愛し合っている。どんなことがあっても彼女を幸せにしたい」

末子も、おじ様達には妙に可愛がられるが、とびっきりの美人ではない。しかしだ。(えっ、この人)私や、可愛いい二人の子を棄ててまで択んだ女性が。後日、永瀬も言っていた。普通に考えれば、末ちゃんより若くて綺麗で、って思うよね~永瀬は、夫の顔も知らなかったが、公証役場の近くにある駐車場から出てきたカップルを認め、(ああこれだな)と察しをつけ、近くでじっくり見てやろうと思い二人とすれ違ったのだと言う。「ご主人精気の無い感じだったね。それに、あの市村って女性、何処かのビルの清掃人にいそうな人だよね」と評した。ビルの清掃に携わっている人総てが地味とは限らないが、少なくとも、市村に、他人の夫を略奪するほどの情熱の持ち主とは思えない。というのが、二人の一致する感想だった。

午後、出社した末子は、自分の机に座ってから、急に全身の力が抜けるような疲労感を覚えた。やっぱり気負っていたのだろう。総てが終わったという脱力感とともに、これからの生活への不安や、(この選択で良かったのかしら)と、ちょっぴり後悔した。永瀬は、この話題に触れるたび「君のご主人はそのうちベソかいて戻ってくるから楽しみにしていなよ」と言って茶化すが、末子は(本当かしら)と、永瀬の言葉を信じていない。最近では、(帰って来て貰っても困る)と本気で思っているし、そう思う事情も有った。

永瀬との関係は会うたびに深くなってゆく。市村が私にした同じ事を自分もやっている。永瀬の妻や子供のことは知らない。多分平穏で安定したか家庭なのだろう。永瀬には、家族に対する自負と自信が感じられる。きっと、良き父であり、信頼される夫なのだろう。末子は、罪の意識とともに、徐々に芽生えてくる嫉妬に苦しんでいた。一度、(清算したい)というメールを送ったら、待ち構えていたように、永瀬から「そうだね、そうしよう」という返信が来て慌てたことがあった。こういうのを、一種の(心裡留保)というのかもしれない。末子は半分以上冗談で言ったし、受けた永瀬も末子の本心では無いことを承知しながら、OKと応じたのだろう。

それから数日して、ホテルのベッドで、(仮に私がそう言っても、どうしたのとか、何で、って聞いて欲しかった)と、抗議すると、永瀬は、妙に真剣な表情でこう言った。「二度とあんなメールしちゃあだめだよ、嘘も百回言うと本当に成るって言うじゃないか、良く、喧嘩するほど仲が良い。って言うけど、それも僕は違うと思う。男と女は小さな諍いを重ねるうち、引っ込みがつかなくなる時もある。本当に別れたいときはそれなりの決意で言わないと、もうあんな冗談は無しだよ」-------