あの橋から その26

探偵日記 12月27日木曜日晴れ

今朝の東京は零下2度ぐらいなのだろうか、昨日より一段と冷え込んだ朝、全身に毛皮をまとったタイちゃんと何時もの散歩に出る。ちょっと気になることがあったので、注意してみていると、タイちゃんの視力、かなり低下しているようだ。歩きながら何かにぶっつかるのは、この犬種の特徴かと思っていたがーーー

前は、数百メートル先に犬でも居ようものなら、遊びたい一心で僕を引っ張ったものだが、最近は、数メートルのところに犬が現れても気づかないことがある。風向きの関係もあるだろうが視力と鼻も衰えてきたみたい。軽にF1のエンジンをつけたようなジャックラッセル犬も加齢には適わないようだ。淋しく悲しい現実である。



あの橋から その26

春が来た。狭い庭に植えた種からこの季節に咲く花が可憐な姿を現した。末子は、小動物も好きだが、名も無いような草木にも愛おしさを抱く。別れた夫も、そんな末子が好きだといって結婚を希望した。その夫が、そして、子供たちの父親不在の生活にも次第に馴れ、母子三人の暮らしが当たり前に思えるように成ってきた。長男は、努力の甲斐なく受験に失敗したが、末子の(大丈夫、浪人の1年って物凄く力がつくっていうから、家のことは気にしないで頑張りなさい)と言って励ますと、「すみません、あと1年猶予をを下さい」と言って、その日のうちに恵比寿にある有名な進学塾を見つけてきた。どっちに似たのか極めて温厚な性格だが、決断力もあり、何より努力家である。親の欲目ではなく顔立ちも今風の草食系美男子である。なのに、目下のところ、ガールフレンドは居ないようで、(体が鈍る)と言って、最寄駅まで30分かけて通っている。

長女は、ピカピカの中学1年生。こっちも誰に似たのか、行動力があり、何事にも積極的に取り組み、早くも、親友を数人つくったらしい。(私、大学を出たら外国の会社に入り、イギリス人と結婚する)などと、思いがけないことを言って末子を驚かせたりする。なにはともあれ、二人とも可愛く、素直に成長していることが嬉しい。

夫とあの女性はどんな生活をしているんだろうか。と、思わぬわけでもないが、末子も、見掛けに似合わず割り切りも早く、永瀬に「男は名前をつけて保存するけど、女性は上書き保存で~す)なんて、憎らしいことを言う。ただ、その夫から頻繁にメールが届くのが鬱陶しい。本当に瑣末なことを口実に、「会いたい」とか言ってくるので、ある時、末子が、(貴方は家を出て行った人ですから、もう私達に関わらないで欲しい。最愛の市村さんと仲良くお暮らし下さい)と返信したら、「ムリ」と短いメールが来た。

その後も、長男の卒業式に出たいとか、長女の入学式に是非、などと煩く言ってくる。末子も、(まあ、親子なんだから)と思い、その都度二人に聞いてみる。長男は、(冗談じゃあない。のこのこ出てきたらぶっ殺してやる)なんて物騒なことを言うが、本心でないことは母親の末子には分っている。その反面、長女は(お祝いだけ貰いたい)と言い、実際に、ちゃっかり受け取っている。最近は、父親の足元を見て、末子に内緒で、何かねだっているらしい。

少し淋しいけどそれなりに安定して、日々穏やかな生活が戻ってくると、もう一人の家族、はなちゃんも落ち着きを取り戻し、毎日の散歩と食事をせがむ仕草も一段と可愛さを増し、散歩の時は必ず(あの橋)に行きたがる。しかし、末子は頑として足を向けない。時には、理由の分らないはなちゃんと小競り合いになる。

その後、一度だけ、あの橋を通る羽目になった。下車駅からの終バスに乗り遅れ、(タクシーに乗るのももったいない)と思い歩いて帰る事にした。夜とはいえ、まだ通勤帰りの人も居て、永瀬のことなど考えながら、用水路に沿って我が家に向かっていた末子は、突然胸苦しさを覚え、次に、過呼吸に陥った。立っていることも出来ないくらい。今にも倒れそうになり呆然と立ちすくむ末子を見て、(大丈夫ですか?)と声をかけてくれる者も居たが、頭を横に振り、謝礼の意を示しながらしゃがみ込んでしまった。あの日、大量の睡眠薬を飲み、朦朧とした末子が辿り着き、気を失った場所。大好きなあの橋のたもと。なのに何故ーーーーーーー